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それから 十六の三

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それから 十六の三

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夏目漱石

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「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と苦笑しながら答へたが、頭の中は焙炉の如く火照つてゐた。然し三千代は気にも掛からなかつたと見えて、何故とも聞き返さなかつた。たゞ簡単に、

「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目になつた。

「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話して仕舞ふが」と前置をして、夫から自分と父との今日迄の関係を詳しく述べた上、

「僕の身分は是から先何うなるか分らない。少なくとも当分は一人前ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ淀んだ。

「だから、何うなさるんです」

「だから、僕の思ふ通り、貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」

「責任つて、何んな責任なの。もつと判然仰しやらなくつちや解らないわ」

 代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に価しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから富が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、夫より外に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。

「徳義上の責任ぢやない、物質上の責任です」

「そんなものは欲しくないわ」

「欲しくないと云つたつて、是非必要になるんです。是から先僕が貴方と何んな新らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」

「解決者でも何でも、今更左様な事を気にしたつて仕方がないわ」

「口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます」

 三千代は少し色を変へた。

「今貴方の御父様の御話を伺つて見ると、斯うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は疾うから気が付いて入つしやる筈だと思ひますわ」

 代助は返事が出来なかつた。頭を抑えて、

「少し脳が何うかしてゐるんだ」と独り言の様に云つた。三千代は少し涙ぐんだ。

「もし、夫が気になるなら、私の方は何うでも宜う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御交際になつたら好いぢやありませんか」

 代助は急に三千代の手頸を握つてそれを振る様に力を入れて云つた。――

「そんな事を為る気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方に詫るんです」

「詫まるなんて」と三千代は声を顫はしながら遮つた。「私が源因で左様なつたのに、貴方に詫まらしちや済まないぢやありませんか」

 三千代は声を立てゝ泣いた。代助は慰撫める様に、

「ぢや我慢しますか」と聞いた。

「我慢はしません。当り前ですもの」

「是から先まだ変化がありますよ」

「ある事は承知してゐます。何んな変化があつたつて構やしません。私は此間から、――此間から私は、若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」

 代助は慄然として戦いた。

「貴方に是から先何したら好いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。

「希望なんか無いわ。何でも貴方の云ふ通りになるわ」

「漂泊――」

「漂泊でも好いわ。死ねと仰しやれば死ぬわ」

 代助は又竦とした。

「此儘では」

「此儘でも構はないわ」

「平岡君は全く気が付いてゐない様ですか」

「気が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時殺されたつて好いんですもの」

「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」

「だつて、放つて置いたつて、永く生きられる身体ぢやないぢやありませんか」

 代助は硬くなつて、竦むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里の発作に襲はれた様に思ひ切つて泣いた。