title
それから 十六の四
author
夏目漱石
body
一仕切経つと、発作は次第に収まつた。後は例の通り静かな、しとやかな、奥行のある、美くしい女になつた。眉のあたりが殊に晴/″\しく見えた。其時代助は、
「僕が自分で平岡君に逢つて解決を付けても宜う御座んすか」と聞いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であつた。代助は、
「出来る積です」と確り答へた。
「ぢや、何うでも」と三千代が云つた。
「さうしませう。二人が平岡君を欺いて事をするのは可くない様だ。無論事実を能く納得出来る様に話す丈です。さうして、僕の悪い所はちやんと詫まる覚悟です。其結果は僕の思ふ様に行かないかも知れない。けれども何う間違つたつて、そんな無暗な事は起らない様にする積です。斯う中途半端にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪い。たゞ僕が思ひ切つて左様すると、あなたが、嘸平岡君に面目なからうと思つてね。其所が御気の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所為に対しては、如何に面目なくつても、徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば、外に何等の利益がないとしても、御互の間に有た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を付ける大事の自白なんだから、猶更必要になると思ひます」
「能く解りましたわ。何うせ間違へば死ぬ積なんですから」
「死ぬなんて。――よし死ぬにしたつて、是から先何の位間があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
三千代は又泣き出した。
「ぢや能く詫ります」
代助は日の傾くのを待つて三千代を帰した。然し此前の時の様に送つては行かなかつた。一時間程書斎の中で蝉の声を聞いて暮した。三千代に逢つて自分の未来を打ち明けてから、気分が薩張りした。平岡へ手紙を書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかつた。卒然、襯衣一枚になつて素足で庭へ飛び出した。三千代が帰る時は正体なく午睡をしてゐた門野が、
「まだ早いぢやありませんか。日が当つてゐますぜ」と云ひながら、坊主頭を両手で抑えて椽端にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ潜り込んで竹の落葉を前の方へ掃き出した。門野も已を得ず着物を脱いで下りて来た。
狭い庭だけれども、土が乾いてゐるので、たつぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云つて、好加減にして足を拭いて上つた。烟草を吹いて、椽側に休んでゐると、門野が其姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯つた。
晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買つて来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。夜は深く空は高かつた。星の色は濃く繁く光つた。
代助は其晩わざと雨戸を引かずに寐た。無用心と云ふ恐れが彼の頭には全く無かつた。彼は洋燈を消して、蚊帳の中に独り寐転びながら、暗い所から暗い空を透かして見た。頭の中には昼の事が鮮かに輝いた。もう二三日のうちには最後の解決が出来ると思つて幾度か胸を躍らせた。が、そのうち大いなる空と、大いなる夢のうちに、吾知らず吸収された。
翌日の朝彼は思ひ切つて平岡へ手紙を出した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて貰ひたい。此方は何時でも差支ない。と書いた丈だが、彼はわざとそれを封書にした。状袋の糊を湿めして、赤い切手をとんと張つた時には、愈クライシスに証券を与へた様な気がした。彼は門野に云ひ付けて、此運命の使を郵便函に投げ込ました。手渡しにする時、少し手先が顫へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年前三千代と平岡の間に立つて斡旋の労を取つた事を追想すると丸で夢の様であつた。