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それから 十六の七

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それから 十六の七

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夏目漱石

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 門野が寐惚け眼を擦りながら、雨戸を開けに出た時、代助ははつとして、此仮睡から覚めた。世界の半面はもう赤い日に洗はれてゐた。

「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を浴びた。朝飯は食はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書いてあるか解らなかつた。読むに従つて、読んだ事が群がつて消えて行つた。たゞ時計の針ばかりが気になつた。平岡が来る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其間を何うして暮らさうかと思つた。凝としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に付かなかつた。責めて此二時間をぐつと寐込んで、眼を開けて見ると、自分の前に平岡が来てゐる様にしたかつた。

 仕舞に何か用事を考へ出さうとした。不図机の上に乗せてあつた梅子の封筒が眼に付いた。代助は是だと思つて、強いて机の前に坐つて、嫂へ謝状を書いた。成るべく叮嚀に書く積であつたが、状袋へ入れて宛名迄認めて仕舞つて、時計を眺めると、たつた十五分程しか経つてゐなかつた。代助は席に着いた儘、安からぬ眼を空に据ゑて、頭の中で何か捜す様に見えた。が、急に起つた。

「平岡が来たら、すぐ帰るからつて、少し待たして置いて呉れ」と門野に云ひ置いて表へ出た。強い日が正面から射竦める様な勢で、代助の顔を打つた。代助は歩きながら絶えず眼と眉を動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄つた古本屋迄来て、

「昨日不要の本を取りに来て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り酷かつたので、電車で飯田橋へ回つて、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。

 家の前には車が一台下りてゐた。玄関には靴が揃へてあつた。代助は門野の注意を待たないで、平岡の来てゐる事を悟つた。汗を拭いて、着物を洗ひ立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。

「いや、御使で」と平岡が云つた。矢張り洋服を着て、蒸される様に扇を使つた。

「何うも暑い所を」と代助も自から表立た言葉遣をしなければならなかつた。

 二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いて見たかつた。然しそれが何う云ふものか聞き悪かつた。其内通例の挨拶も済んで仕舞つた。話は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であつた。

「三千代さんは病気だつてね」

「うん。夫で社の方も二三日休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた」

「そりや何うでも構はないが。三千代さんはそれ程悪いのかい」

 平岡は断然たる答を一言葉でなし得なかつた。さう急に何うの斯うのといふ心配もない様だが、決して軽い方ではないといふ意味を手短かに述べた。

 此前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出た序に、代助の所へ寄つた明日の朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしてゐながら、突然夫の襟飾を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度は其儘に三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出て呉れと云ひ出した。口元には微笑の影さへ見えた。横にはなつてゐたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だつたら医者を呼ぶ様に、必要があつたら社へ電話を掛ける様に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は遅く帰つた。三千代は心持が悪いといつて先へ寐てゐた。何んな具合かと聞いても、判然した返事をしなかつた。翌日朝起きて見ると三千代の色沢が非常に可くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎へた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の為だと云つた。随分強い神経衰弱に罹つてゐると注意した。平岡は夫から社を休んだ。本人は大丈夫だから出て呉れろと頼む様に云つたが、平岡は聞かなかつた。看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非詫まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其訳を聞いて呉れろと夫に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかつた。脳の加減が悪いのだらうと思つて、好し/\と気休めを云つて慰めてゐた。三日目にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を認めた。すると夕方になつて、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざ/\小石川迄遣つて来た。

「君の用事と三千代の云ふ事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議さうに代助を見た。