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それから 十六の十
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夏目漱石
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「どうも運命だから仕方がない」
平岡は呻吟く様な声を出した。二人は漸く顔を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞かう」
「僕は君の前に詫まつてゐる人間だ。此方から先へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕には何にもない」と平岡は頭を抑えてゐた。
「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。
平岡は頭から手を離して、肱を棒の様に洋卓の上に倒した。同時に、
「うん遣らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども悪んぢやゐなかつた。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方ぢやない。寐てゐる病人を君に遣るのは厭だ。病気が癒る迄君に遣れないとすれば、夫迄は僕が夫だから、夫として看護する責任がある」
「僕は君に詫つた。三千代さんも君に詫まつてゐる。君から云へば二人とも、不埒な奴には相違ないが、――幾何詫まつても勘弁出来んかも知れないが、――何しろ病気をして寐てゐるんだから」
「夫は分つてゐる。本人の病気に付け込んで僕が意趣晴らしに、虐待でもすると思つてるんだらうが、僕だつて、まさか」
代助は平岡の言を信じた。さうして腹の中で平岡に感謝した。平岡は次に斯う云つた。
「僕は今日の事がある以上は、世間的の夫の立場からして、もう君と交際する訳には行かない。今日限り絶交するから左様思つて呉れ玉へ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。此先何んな変化がないとも限らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は已を得ない。僕の在不在に係はらず、宅へ出入りする事丈は遠慮して貰ひたい」
「承知した」と代助はよろめく様に云つた。其頬は益蒼かつた。平岡は立ち上がつた。
「君、もう五分許坐つて呉れ」と代助が頼んだ。平岡は席に着いた儘無言でゐた。
「三千代さんの病気は、急に危険な虞でもありさうなのかい」
「さあ」
「夫丈教へて呉れないか」
「まあ、さう心配しないでも可いだらう」
平岡は暗い調子で、地に息を吐く様に答へた。代助は堪えられない思がした。
「若しだね。若し万一の事がありさうだつたら、其前にたつた一遍丈で可いから、逢はして呉れないか。外には決して何も頼まない。たゞ夫丈だ。夫丈を何うか承知して呉れ玉へ」
平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかつた。代助は苦痛の遣り所がなくて、両手の掌を、垢の綯れる程揉んだ。
「夫はまあ其時の場合にしやう」と平岡が重さうに答へた。
「ぢや、時々病人の様子を聞きに遣つても可いかね」
「夫は困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕は是から先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから」
代助は電流に感じた如く椅子の上で飛び上がつた。
「あつ。解つた。三千代さんの死骸丈を僕に見せる積なんだ。それは苛い。それは残酷だ」
代助は洋卓の縁を回つて、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊広の肩を抑えて、前後に揺りながら、
「苛い、苛い」と云つた。
平岡は代助の眼のうちに狂へる恐ろしい光を見出した。肩を揺られながら、立ち上がつた。
「左んな事があるものか」と云つて代助の手を抑えた。二人は魔に憑かれた様な顔をして互を見た。
「落ち付かなくつちや不可ない」と平岡が云つた。
「落ち付いてゐる」と代助が答へた。けれども其言葉は喘ぐ息の間を苦しさうに洩れて出た。
暫らくして発作の反動が来た。代助は己れを支ふる力を用ひ尽した人の様に、又椅子に腰を卸した。さうして両手で顔を抑えた。