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それから 三の二

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それから 三の二

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夏目漱石

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 代助の尤も応へるのは親爺である。好い年をして、若い妾を持つてゐるが、それは構はない。代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺は又大分の八釜し屋である。小供のうちは心魂に徹して困却した事がある。しかし成人の今日では、それにも別段辟易する必要を認めない。たゞ応へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもつて、代助も遣らなくつては、嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒つた試しがない。親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇つてゐる。

 実際を云ふと親爺の所謂薫育は、此父子の間に纏綿する暖かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺の腹のなかでは、それが全く反対に解釈されて仕舞つた。何をしやうと血肉の親子である。子が親に対する天賦の情合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈がない。教育の為め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生れ落ちるや否や、此親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。

 親爺は戦争に出たのを頗る自慢にする。稍もすると、御前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据らなくつて不可んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間至上な能力であるかの如き言草である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭な心持がする。胆力は命の遣り取りの劇しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父さんから又胆力の講釈を聞いた。御父さんの様に云ふと、世の中で石地蔵が一番偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂と笑つた事がある。

 斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺の使嗾で、夜中にわざ/\青山の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家へ帰つて来た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝親爺に笑はれたときは、親爺が憎らしかつた。親爺の云ふ所によると、彼と同時代の少年は、胆力修養の為め、夜半に結束して、たつた一人、御城の北一里にある剣が峰の天頂迄登つて、其所の辻堂で夜明をして、日の出を拝んで帰つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方からして違ふと親爺が批評した。

 斯んな事を真面目に口にした、又今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌である。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎で凝と坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いてゐる坐蒲団も、畳も、乃至床板も明らかに震へる様に思はれる。彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽はる愚者としか代助には受け取れないのである。