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それから 三の四

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それから 三の四

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夏目漱石

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「身体は丈夫だね」

「二三年このかた風邪を引いた事もありません」

「頭も悪い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可なりだつたんぢやないか」

「まあ左様です」

「夫で遊んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前の所へ善く話しに来た男があるだらう。己も一二度逢つたことがある」

「平岡ですか」

「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処かへ行つたぢやないか」

「其代り失敗て、もう帰つて来ました」

 老人は苦笑を禁じ得なかつた。

「どうして」と聞いた。

「詰り食ふ為に働らくからでせう」

 老人には此意味が善く解らなかつた。

「何か面白くない事でも遣つたのかな」と聞き返した。

「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗になるんでせう」

「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易へて、説き出した。

「若い人がよく失敗といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年の経験で、此年になる迄遣つて来たが、どうしても此二つがないと成功しないね」

「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」

「いや、先ないな」

 親爺の頭の上に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。

 其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いで其前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額を藩主に書いて貰つたんである。爾来長井は何時でも、之を自分の居間に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍聞かされたか知れない。

 今から十五六年前に、旧藩主の家で、月々の支出が嵩んできて、折角持ち直した経済が又崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪を焚いて見て、実際の消費高と帳面づらの消費高との差違から調べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計をしてゐる。

 斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。

「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」

「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」

「何う云ふ訳で」

 代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。

「御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、金の延金を呑んで入らつしやるから、左様いふ事を仰しやるんでせう」

「金の延金とは」

 代助はしばらく黙つてゐたが、漸やく、

「延金の儘出て来るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。