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それから 三の五
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夏目漱石
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それから約四十分程して、老人は着物を着換えて、袴を穿いて、俥に乗つて、何処かへ出て行つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入つた。是は近頃になつて建て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼んで、色々相談の揚句に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前来て見た時よりは、痛く見劣りがする。是では頼もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼を付けて吟味してゐると、突然嫂が這入つて来た。
「おや、此所に入らつしやるの」と云つたが、「一寸其所らに私の櫛が落ちて居なくつて」と聞いた。櫛は長椅子の足の所にあつた。昨日縫子に貸して遣つたら、何所かへ失なして仕舞つたんで、探しに来たんださうである。両手で頭を抑へる様にして、櫛を束髪の根方へ押し付けて、上眼で代助を見ながら、
「相変らず茫乎してるぢやありませんか」と調戯つた。
「御父さんから御談義を聞かされちまつた」
「また? 能く叱られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方もあんまり、好かないわ。些とも御父さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、些とも云ふ事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して黙つて仕舞つた。梅子は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になつて上げるから」
代助は矢っ張り立つた儘、嫂の姿を見守つてゐた。
「今日は妙な半襟を掛けてますね」
「これ?」
梅子は顎を縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「此間買つたの」
「好い色だ」
「まあ、そんな事は、何うでも可いから、其所へ御掛けなさいよ」
代助は嫂の真正面へ腰を卸した。
「へえ掛けました」
「一体今日は何を叱られたんです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽すには驚ろいた。何でも十八の年から今日迄のべつに尽してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に尽して、金が御父さん位儲かるなら、僕も尽しても好い」
「だから遊んでないで、御尽しなさいな。貴方は寐てゐて御金を取らうとするから狡猾よ」
「御金を取らうとした事は、まだ有りません」
「取らうとしなくつても、使ふから同じぢやありませんか」
「兄さんが何とか云つてましたか」
「兄さんは呆れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」
「何うして。――あら悪らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方はそれが悪いのよ。真面目な顔をして他を茶化すから」
「左様なもんでせうか」
「左様なもんでせうかつて、他の事ぢやあるまいし。少しや考へて御覧なさいな」
「何うも此所へ来ると、丸で門野と同じ様になつちまふから困る」
「門野つて何です」
「なに宅にゐる書生ですがね。人に何か云はれると、屹度左様なもんでせうか、とか、左様でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」