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それから 三の六

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それから 三の六

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夏目漱石

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 代助は一寸話を已めて、梅子の肩越に、窓掛の間から、奇麗な空を透かす様に見てゐた。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天に接く所は、糠雨で暈されたかの如くに霞んでゐる。

「好い気候になりましたね。何所か御花見にでも行きませうか」

「行きませう。行くから仰しやい」

「何を」

「御父さまから云はれた事を」

「云はれた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」

「まだ空つとぼけて居らつしやる。ちやんと知つてますよ」

「ぢや、伺ひませうか」

 梅子は少しつんとした。

「貴方は近頃余つ程減らず口が達者におなりね」

「何、姉さんが辟易する程ぢやない。――時に今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」

「小供は学校です」

 十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸電話口迄と取り次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。

「あなたは、其所に居らつしやい。少し話しがあるから」

 代助には嫂のかう云ふ命令的の言葉が何時でも面白く感ぜられる。御緩と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。しばらくすると、其色が壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた/\喰つ付く様に見えて来た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手な個所々々を悉く塗り更へて、とう/\自分の想像し得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐つてゐた。所へ梅子が帰つて来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。

 梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好い逃口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口と顎の角度が悪いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて来る。それが悉く尋常な言草でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困らせるのだらう。当分打遣つて置いて、向ふから頼み出させるに若くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮して来た。

 其所へ親爺が甚だ因念の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰つた。梅子は代助の来る二三日前に、其話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日何にも聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意と話題を避けたとも取れる。

 此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。