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それから 四の二
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夏目漱石
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代助は机の上の書物を伏せると立ち上がつた。縁側の硝子戸を細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣をふら/\と揺かした。日は大きな花の上に落ちてゐる。代助は曲んで、花の中を覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊の頂きから、花粉を取つて、雌蕊の先へ持つて来て、丹念に塗り付けた。
「蟻でも付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿いてゐる。代助は曲んだ儘顔を上げた。
「もう行つて来たの」
「えゝ、行つて来ました。何ださうです。明日御引移りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰しやいました」
「誰が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも何ですな。大分御忙がしい様ですな。先生た余つ程違つてますね。――蟻なら種油を御注ぎなさい。さうして苦しがつて、穴から出て来る所を一々殺すんです。何なら殺しませうか」
「蟻ぢやない。斯うして、天気の好い時に、花粉を取つて、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実が結るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯も好加減に休すかな」と云ひながら立ち上がつて、縁側へ据付の、籐の安楽椅子に腰を掛けた。夫れ限りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野は詰らなくなつたから、自分の玄関傍の三畳敷へ引き取つた。障子を開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返された。
「平岡が今日来ると云つたつて」
「えゝ、来る様な御話しでした」
「ぢや待つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間から大分気に掛つてゐる。
平岡は此前、代助を訪問した当時、既に落ち付いてゐられない身分であつた。彼自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居つた。が、洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急しい調子で、細君を極め付けてゐた。――案内なしに廊下を伝つて、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかに左様取れた。其時平岡は一寸振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、蒼白い頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に就き悪くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何うしてゐるかと思つて一寸来て見た丈だ。出掛けるなら一所に出様と、此方から誘ふ様にして表へ出て仕舞つた。
其時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、何うする事も出来ない、たまに宿のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退かなかつたり、あるひは今壁を塗つてる最中だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家は、宅の書生に探させやう。なに不景気だから、大分空いてるのがある筈だ。と請合つて帰つた。
夫から約束通り門野を探しに出した。出すや否や、門野はすぐ恰好なのを見付けて来た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵可からうと云ふ事で分れたさうだが、門野は家主の方へ責任もあるし、又其所が気に入らなければ外を探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主の方へは借りるつて、断わつて来たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄つて、明日引越すからつて、云つて来ました」