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それから 四の三

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それから 四の三

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夏目漱石

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 代助は椅子に腰を掛けた儘、新らしく二度の世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼の経歴は処世の階子段を一二段で踏み外したと同じ事である。まだ高い所へ上つてゐなかつた丈が、幸と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼に映ずる程、身体に打撲を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算して見て、或は此方の心が向に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外へ出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻らなければならなくなつた。平岡は其時顔の中心に一種の神経を寄せてゐた。風が吹いても、砂が飛んでも、強い刺激を受けさうな眉と眉の継目を、憚らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口にする事が、内容の如何に関はらず、如何にも急しなく、且つ切なさうに、代助の耳に響いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦しい葛湯の中を片息で泳いでゐる様に取れた。

「あんなに、焦つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿を見送つた代助は、口の内でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。

 代助は此細君を捕まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時でも三千代さん/\と、結婚しない前の通りに、本名を呼んでゐる。代助は平岡に分れてから又引き返して、旅宿へ行つて、三千代さんに逢つて話しをしやうかと思つた。けれども、何だか行けなかつた。足を停めて思案しても、今の自分には、行くのが悪いと云ふ意味はちつとも見出せなかつた。けれども、気が咎めて行かれなかつた。勇気を出せば行かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫で家へ帰つた。其代り帰つても、落ち付かない様な、物足らない様な、妙な心持がした。ので、又外へ出て酒を飲んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。

「あの時は、何うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚りながら、比較的冷やかな自己で、自己の影を批判した。

「何か御用ですか」と門野が又出て来た。袴を脱いで、足袋を脱いで、団子の様な素足を出してゐる。代助は黙つて門野の顔を見た。門野も代助の顔を見て、一寸の間突立つてゐた。

「おや、御呼になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段可笑しいとも思はなかつた。

「小母さん、御呼びになつたんぢやないとさ。何うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間の方で聞えた。夫から門野と婆さんの笑ふ声がした。

 其時、待ち設けてゐる御客が来た。取次に出た門野は意外な顔をして這入つて来た。さうして、其顔を代助の傍迄持つて来て、先生、奥さんですと囁やく様に云つた。代助は黙つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。