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それから 五の五
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夏目漱石
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其所は河が流れて、柳があつて、古風な家であつた。黒くなつた床柱の傍の違ひ棚に、絹帽を引繰返しに、二つ並べて置いて見て、代助は妙だなと云つた。然し明け放した二階の間に、たつた二人で胡坐をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽であつた。
二人は好い心持に酒を飲んだ。兄は飲んで、食つて、世間話をすれば其外に用はないと云ふ態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間三千代から頼まれた金策の件である。
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覚はある。其時兄は叱るかと思ひの外、さうか、困り者だな、親爺には内々で置けと云つて嫂を通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口の小言も云はなかつた。代助は其時から、兄に恐縮して仕舞つた。其後小遣に困る事はよくあるが、困るたんびに嫂を痛めて事を済ましてゐた。従つて斯う云ふ事件に関して兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。
代助から見ると、誠吾は蔓のない薬鑵と同じことで、何処から手を出して好いか分らない。然しそこが代助には興味があつた。
代助は世間話の体にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金を借りに来た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、私も気の毒だから、何うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。左様かい」
「何うでせう」
「御前金が出来るのかい」
「私や一文も出来やしません。借りるんです」
「誰から」
代助は始めから此所へ落す積だつたんだから、判然した調子で、
「貴方から借りて置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔を見た。兄は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御廃しよ」と答へた。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許ではない、返す返さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放つて置けば自から何うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子を頼まれて宅へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使ひ込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼みに来た事がある。無論誠吾が直に逢つたのではないが、妻に云ひ付けて断らした。夫でも其子は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家の敷金を、つい使つて仕舞つて、借家人が明日引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来た事がある。然し是も断らした。夫でも別に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、姉さんが蔭へ廻つて恵んでゐるに違ない。ハヽヽヽ。兄さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「何、そんな事があるものか」
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口へ持つて行つた。