← 作品

それから 六の一

title

それから 六の一

author

夏目漱石

body

 其日誠吾は中々金を貸して遣らうと云はなかつた。代助も三千代が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄を、其所迄連れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口にすれば、兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方へ行つたり此方へ来たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺の所謂熱誠が足りないとは、此所の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障なものはないと自覚してゐる。兄には其辺の消息がよく解つてゐる。だから此手で遣り損なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落す事になる。と気が付いてゐる。

 代助は飲むに従つて、段々金を遠ざかつて来た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、旨く飲めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ段になつて、思ひ出した様に、金は借りなくつても好いから、平岡を何処か使つて遣つて呉れないかと頼んだ。

「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\飯を掻き込んでゐた。

 明日眼が覚めた時、代助は床の中でまづ第一番に斯う考へた。

「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくつちや駄目だ。単に兄弟の好丈では何うする事も出来ない」

 斯う考へた様なものゝ、別に兄を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今茲で平岡の為に判を押して、連借でもしたら、何うするだらう。矢っ張り彼の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄は其所迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。

 代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄が其所を見抜いて金を貸さないとすると、一寸意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――其所迄来て、代助は自分ながら、あんまり性質が能くないなと心のうちで苦笑した。

 けれども、唯一つ慥な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。

 斯う考へながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、胡坐をかいて新聞を読んでゐたが、髪を濡らして湯殿から帰つて来る代助を見るや否や、急に坐三昧を直して、新聞を畳んで坐蒲団の傍へ押し遣りながら、

「何うも『煤烟』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。

「君読んでるんですか」

「えゝ、毎朝読んでます」

「面白いですか」

「面白い様ですな。どうも」

「何んな所が」

「何んな所がつて。さう改たまつて聞かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が出てゐる様ぢやありませんか」

「さうして、肉の臭ひがしやしないか」

「しますな。大いに」

 代助は黙つて仕舞つた。