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それから 六の三

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それから 六の三

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夏目漱石

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 午過になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し出した。腹のなかに小さな皺が無数に出来て、其皺が絶えず、相互の位地と、形状とを変へて、一面に揺いてゐる様な気持がする。代助は時々斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は昨日兄と一所に鰻を食つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て見やうかと思ひ出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を出さして、着換へやうとしてゐる所へ、甥の誠太郎が来た。帽子を手に持つた儘、恰好の好い円い頭を、代助の頭へ出して、腰を掛けた。

「もう学校は引けたのかい。早過ぎるぢやないか」

「ちつとも早かない」と云つて、笑ひながら、代助の顔を見てゐる。代助は手を敲いて婆さんを呼んで、

「誠太郎、チヨコレートを飲むかい」と聞いた。

「飲む」

 代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯だした。

「誠太郎、御前はベースボール許遣るもんだから、此頃手が大変大きくなつたよ。頭より手の方が大きいよ」

 誠太郎はにこ/\して、右の手で、円い頭をぐる/″\撫でた。実際大きな手を持つてゐる。

「叔父さんは、昨日御父さんから奢つて貰つたんですつてね」

「あゝ、御馳走になつたよ。御蔭で今日は腹具合が悪くつて不可ない」

「又神経だ」

「神経ぢやない本当だよ。全たく兄さんの所為だ」

「だつて御父さんは左様云つてましたよ」

「何て」

「明日学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して貰へつて」

「へえゝ、昨日の御礼にかい」

「えゝ、今日は己が奢つたから、明日が向ふの番だつて」

「それで、わざ/\遣つて来たのかい」

「えゝ」

「兄の子丈あつて、中々抜けないな。だから今チヨコレートを飲まして遣るから可いぢやないか」

「チヨコレートなんぞ」

「飲まないかい」

「飲む事は飲むけれども」

 誠太郎の注文を能く聞いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ連れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は快よく引き受けた。すると誠太郎は嬉しさうな顔をして、突然、

「叔父さんはのらくらして居るけれども実際偉いんですつてね」と云つた。代助も是には一寸呆れた。仕方なしに、

「偉いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。

「だつて、僕は昨夕始めて御父さんから聞いたんですもの」と云ふ弁解があつた。

 誠太郎の云ふ所によると、昨夕兄が宅へ帰つてから、父と嫂と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く分らないが、比較的頭が可いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。父は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄は之に対して、あゝ遣つてゐても、あれで中々解つた所がある。当分放つて置くが可い。放つて置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣るだらうと弁護したのださうだ。すると嫂がそれに賛成して、一週間許り前占者に見てもらつたら、此人は屹度人の上に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。

 代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、占者の所へ来たら、本当に可笑しくなつた。やがて着物を着換て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家を訪ねた。