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それから 六の五

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それから 六の五

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夏目漱石

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 三千代は小供の着物を膝の上に乗せた儘、返事もせずしばらく俯向いて眺めてゐたが、

「貴方のと同じに拵へたのよ」と云つて夫の方を見た。

「是か」

 平岡は絣の袷の下へ、ネルを重ねて、素肌に着てゐた。

「是はもう不可ん。暑くて駄目だ」

 代助は始めて、昔の平岡を当面に見た。

「袷の下にネルを重ねちやもう暑い。繻絆にすると可い」

「うん、面倒だから着てゐるが」

「洗濯をするから御脱ぎなさいと云つても、中々脱がないのよ」

「いや、もう脱ぐ、己も少々厭になつた」

 話は死んだ小供の事をとう/\離れて仕舞つた。さうして、来た時よりは幾分か空気に暖味が出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出した。三千代も支度をするから、緩りして行つて呉れと頼む様に留めて、次の間へ立つた。代助は其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた。

「君何所か奉公口の見当は付いたか」と聞いた。

「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶ丈の事だ。緩くり探してゐるうちには何うかなるだらう」

 云ふ事は落ち付いてゐるが、代助が聞くと却つて焦つて探してゐる様にしか取れない。代助は、昨日兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構へてゐる向ふの体面を、わざと此方から毀損する様な気がしたからである。其上金の事に付いては平岡からはまだ一言の相談も受けた事もない。だから表向挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯うして黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思はれるに極つてゐる。けれども今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。

 代助が真鍮を以て甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来たしたといふ様な、小説じみた歴史を有つてゐる為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金を自分で剥がして来たに過ぎない。代助は此渡金の大半をもつて、親爺が捺摺り付けたものと信じてゐる。其時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の渡金が辛かつた。早く金になりたいと焦つて見た。所が、他のものゝ地金へ、自分の眼光がぢかに打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出した。

 代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄と喧嘩をしても、父と口論をしても、平岡の為に計つたらう、又其計つた通りを平岡の所へ来て事々しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。

 それで肝心の話は一二言で已めて、あとは色々な雑談に時を過ごすうちに酒が出た。三千代が徳利の尻を持つて御酌をした。