title
それから 六の七
author
夏目漱石
body
平岡は膳の上の肴を二口三口、箸で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼を上げて、云つた。――
「今日は久し振りに好い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好い心持にならないね。何うも怪しからん。僕が昔の平岡常次郎になつてるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。是非なり給へ。さうして、大いに遣つて呉れ給へ。僕も是から遣る。から君も遣つて呉れ給へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を昔に返さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認めた。さうして、それに動かされた。けれども一方では、一昨日、食つた麺麭を今返せと強請られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭は大抵確かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが厭になつた。
「君、頭は確かい」と聞いた。
「確だとも。君さへ確なら此方は何時でも確だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、働らかない/\と云つて、大分僕を攻撃したが、僕は黙つてゐた。攻撃される通り僕は働らかない積だから黙つてゐた」
「何故働かない」
「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――」
代助は一寸息を継いだ。さうして、一寸窮屈さうに控えてゐる三千代の方を見て、御世辞を遣つた。
「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気で宜いでせう。賛成しませんか」
「何だか厭世の様な呑気の様な妙なのね。私よく分らないわ。けれども、少し胡麻化して入らつしやる様よ」
「へええ。何処ん所を」
「何処ん所つて、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は股の上へ肱を乗せて、肱の上へ顎を載せて黙つてゐたが、何にも云はずに盃を代助の前に出した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。