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それから 一の四
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夏目漱石
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代助はやがて食事を済まして、烟草を吹かし出した。今迄茶箪笥の陰に、ぽつねんと膝を抱へて柱に倚り懸つてゐた門野は、もう好い時分だと思つて、又主人に質問を掛けた。
「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」
此間から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「今日はまだ大丈夫だ」
「何だか明日にも危しくなりさうですな。どうも先生見た様に身体を気にしちや、――仕舞には本当の病気に取つ付かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
門野は只へえゝと云つた限、代助の光沢の好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて来ない。たまに横町へでも曲ると、すぐ迷児になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至つては猶更粗末である。恰も荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも此のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞たがる。其上頑強一点張りの肉体を笠に着て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた報に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野にはそんな事は丸で分らない。
「門野さん、郵便は来て居なかつたかね」
「郵便ですか。斯うつと。来てゐました。端書と封書が。机の上に置きました。持つて来ますか」
「いや、僕が彼方へ行つても可い」
歯切れのわるい返事なので、門野はもう立つて仕舞つた。さうして端書と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、明日午前会ひたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来たのか、昨日着いたんだな」と独り言の様に云ひながら、封書の方を取り上げると、是は親爺の手蹟である。二三日前帰つて来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。家へ」
「はあ、御宅へ。何て掛けます」
「今日は約束があつて、待ち合せる人があるから上がれないつて。明日か明後日屹度伺ひますからつて」
「はあ。何方に」
「親爺が旅行から帰つて来て、話があるから一寸来いつて云ふんだが、――何親爺を呼び出さないでも可いから、誰にでも左様云つて呉れ給へ」
「はあ」
門野は無雑作に出て行つた。代助は茶の間から、座敷を通つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に掃除が出来てゐる。落椿も何所かへ掃き出されて仕舞つた。代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃迄来てぴたりと手を留めた。其所には廿歳位の女の半身がある。代助は眼を俯せて凝と女の顔を見詰めてゐた。