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それから 八の一
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夏目漱石
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代助が嫂に失敗して帰つた夜は、大分更けてゐた。彼は辛うじて青山の通りで、最後の電車を捕まえた位である。それにも拘はらず彼の話してゐる間には、父も兄も帰つて来なかつた。尤も其間に梅子は電話口へ二返呼ばれた。然し、嫂の様子に別段変つた所もないので、代助は此方から進んで何にも聞かなかつた。
其夜は雨催の空が、地面と同じ様な色に見えた。停留所の赤い柱の傍に、たつた一人立つて電車を待ち合はしてゐると、遠い向ふから小さい火の玉があらはれて、それが一直線に暗い中を上下に揺れつつ代助の方に近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗り込んで見ると、誰も居なかつた。黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まつて動いて行くと、動いてゐる車の外は真暗である。代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこ迄も電車に乗つて、終に下りる機会が来ない迄引つ張り廻される様な気がした。
神楽坂へかゝると、寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでゐた。中途迄上つて来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当る事と思つて、立ち留まつて暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。戸と障子と硝子の打ち合ふ音が、見る/\烈しくなつて、あゝ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦んでゐた。其時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側の潜り戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ/\、大きな地震だと云つて出て来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
家へ着いたら、婆さんも門野も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し様かと思案して見た。然し分別を凝らす迄には至らなかつた。父と兄の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を極めた。さうして眠に入つた。
其明日の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ数が大分多くなつて来て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し立てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の父と兄の関係してゐる会社に就ては何事も知らなかつた。けれども、いつ何んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜敷い吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとは肯はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ貰つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。父と兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、暖室を造つて、拵え上げたんだらうと代助は鑑定してゐた。