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それから 八の三
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夏目漱石
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手紙は古風な状箱の中にあつた。其赤塗の表には名宛も何も書かないで、真鍮の環に通した観世撚の封じ目に黒い墨を着けてあつた。代助は机の上を一目見て、此手紙の主は嫂だとすぐ悟つた。嫂は斯う云ふ旧式な趣味があつて、それが時々思はぬ方角へ出てくる。代助は鋏の先で観世撚の結目を突つつきながら、面倒な手数だと思つた。
けれども中にあつた手紙は、状箱とは正反対に、簡単な言文一致で用を済してゐた。此間わざ/\来て呉れた時は、御依頼通り取り計ひかねて、御気の毒をした。後から考へて見ると、其時色々無遠慮な失礼を云つた事が気にかゝる。どうか悪く取つて下さるな。其代り御金を上げる。尤もみんなと云ふ訳には行かない。二百円丈都合して上げる。から夫をすぐ御友達の所へ届けて御上げなさい。是は兄さんには内所だから其積でゐなくつては不可ない。奥さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。
手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が這入つてゐた。代助は、しばらく、それを眺めてゐるうちに、梅子に済まない様な気がして来た。此間の晩、帰りがけに、向から、ぢや御金は要らないのと聞いた。貸して呉れと切り込んで頼んだ時は、あゝ手痛く跳ね付けて置きながら、いざ断念して帰る段になると、却つて断わつた方から、掛念がつて駄目を押して出た。代助はそこに女性の美くしさと弱さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇気を失つた。此美しい弱点を弄ぶに堪えなかつたからである。えゝ要りません、何うかなるでせうと云つて分れた。それを梅子は冷かな挨拶と思つたに違ない。其冷かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた動作の裏に、何処にか引つ掛つてゐて、とう/\此手紙になつたのだらうと代助は判断した。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈暖かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が斯う云ふ気分になる事は兄に対してもない。父に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり起らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。実を云ふと、二百円は代助に取つて中途半端な額であつた。是丈呉れるなら、一層思ひ切つて、此方の強請つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も出た。が、それは代助の頭が梅子を離れて三千代の方へ向いた時の事であつた。その上、女は如何に思ひ切つた女でも、感情上中途半端なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。否女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、快よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、父であつたとすれば、代助は、それを経済的中途半端と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は晩食も食はずに、すぐ又表へ出た。五軒町から江戸川の縁を伝つて、河を向へ越した時は、先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を上つて伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟を、雲の多い空に吐いてゐた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しいものと思つた。さうして其近くに住む平岡と、此烟突とを暗々の裏に連想せずにはゐられなかつた。斯う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、空に散る憐れな石炭の烟に刺激された。
平岡の玄関の沓脱には女の穿く重ね草履が脱ぎ棄てゝあつた。格子を開けると、奥の方から三千代が裾を鳴らして出て来た。其時上り口の二畳は殆んど暗かつた。三千代は其暗い中に坐つて挨拶をした。始めは誰が来たのか、よく分らなかつたらしかつたが、代助の声を聞くや否や、何方かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は判然見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。