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それから 八の五

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それから 八の五

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夏目漱石

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 中二日置いて、突然平岡が来た。其日は乾いた風が朗らかな天を吹いて、蒼いものが眼に映る、常よりは暑い天気であつた。朝の新聞に菖蒲の案内が出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭はとう/\縁側で散つて仕舞つた。其代り脇差程も幅のある緑の葉が、茎を押し分けて長く延びて来た。古い葉は黒ずんだ儘、日に光つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分から折れて、茎を去る五寸許の所で、急に鋭く下つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏を持つて椽に出た。さうして其葉を折れ込んだ手前から、剪つて棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音がした。切口に集つたのは緑色の濃い重い汁であつた。代助は其香を嗅がうと思つて、乱れる葉の中に鼻を突つ込んだ。椽側の滴は其儘にして置いた。立ち上がつて、袂から手帛を出して、鋏の刃を拭いてゐる所へ、門野が平岡さんが御出ですと報せて来たのである。代助は其時平岡の事も三千代の事も、丸で頭の中に考へてゐなかつた。只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下に動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。

「此方へ御通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着てゐた。襟も白襯衣も新らしい上に、流行の編襟飾を掛けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕ろつてゐた。

 話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日斯うして遊んで歩く。それでなければ、宅に寐てゐるんだと云つて、大きな声を出して笑つて見せた。代助もそれが可からうと答へたなり、後は当らず障らずの世間話に時間を潰してゐた。けれども自然に出る世間話といふよりも、寧ろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じてゐた。

 平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかつた。従がつて三日前代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触れないで澄してゐたが、何時迄経つても、平岡の方で余所々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。

「実は二三日前君の所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。

「うん。左様だつたさうだね。其節は又難有う。御蔭さまで。――なに、君を煩はさないでも何うかなつたんだが、彼奴があまり心配し過て、つい君に迷惑を掛けて済まない」と冷淡な礼を云つた。それから、

「僕も実は御礼に来た様なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出るだらうから」と丸で三千代と自分を別物にした言分であつた。代助はたゞ、

「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面に摺り滑つて行つた。すると、平岡が突然、

「僕はことによると、もう実業は已めるかも知れない。実際内幕を知れば知る程厭になる。其上此方へ来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底かららしい告白をした。代助は、一口、

「それは、左様だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付けた。

「先達ても一寸話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」

「口があるのかい」と代助が聞き返した。

「今、一つある。多分出来さうだ」

 来た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口があるから出様と云ふし、少し要領を欠いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、

「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。