← 作品

それから 十の二

title

それから 十の二

author

夏目漱石

body

 一時間の後、代助は大きな黒い眼を開いた。其眼は、しばらくの間一つ所に留まつて全く動かなかつた。手も足も寐てゐた時の姿勢を少しも崩さずに、丸で死人のそれの様であつた。其時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を伝はつて、代助の咽喉に落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑へた。さうして、額に皺を寄せて、指の股に挟んだ小さな動物を、鼻の上迄持つて来て眺めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指の先に着いた黒いものを、親指の爪で向へ弾いた。さうして起き上がつた。

 膝の周囲に、まだ三四匹這つてゐたのを、薄い象牙の紙小刀で打ち殺した。それから手を叩いて人を呼んだ。

「御目醒ですか」と云つて、門野が出て来た。

「御茶でも入れて来ませうか」と聞いた。代助は、はだかつた胸を掻き合せながら、

「君、僕の寐てゐるうちに、誰か来やしなかつたかね」と、静かな調子で尋ねた。

「えゝ、御出でした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答へた。

「何故起さなかつたんだ」

「余まり能く御休でしたからな」

「だつて御客なら仕方がないぢやないか」

 代助の語勢は少し強くなつた。

「ですがな。平岡の奥さんの方で、起さない方が好いつて、仰しやつたもんですからな」

「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」

「なに帰つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからつて、云はれるもんですからな」

「ぢや又来るんだね」

「さうです。実は御目覚になる迄待つてゐやうかつて、此座敷迄上つて来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐てゐるもんだから、こいつは、容易に起きさうもないと思つたんでせう」

「また出て行つたのかい」

「えゝ、まあ左うです」

 代助は笑ひながら、両手で寐起の顔を撫でた。さうして風呂場へ顔を洗ひに行つた。頭を濡らして、椽側迄帰つて来て、庭を眺めてゐると、前よりは気分が大分晴々した。曇つた空を燕が二羽飛んでゐる様が大いに愉快に見えた。

 代助は此前平岡の訪問を受けてから、心待に、後から三千代の来るのを待つてゐた。けれども、平岡の言葉は遂に事実として現れて来なかつた。特別の事情があつて、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何処かに空虚を感じてゐた。然し彼は此空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出した迄で、其原因をどうするの、斯うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥を覗き込むと、それ以上に暗い影がちらついてゐる様に思つたからである。

 それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けてゐた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方から向へ渡り、向から又此方へ渡り返して、長い堤を縫ふ様に歩いた。が其桜はとくに散て仕舞つて、今は緑蔭の時節になつた。代助は時々橋の真中に立つて、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直に通つてゐる、水の光を眺め尽して見る。それから其光の細くなつた先の方に、高く聳える目白台の森を見上て見る。けれども橋を向へ渡つて、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になつた。ある時彼は大曲の所で、電車を下る平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥に左様に違ないと思つた。さうして、すぐ揚場の方へ引き返した。

 彼は平岡の安否を気にかけてゐた。まだ坐食の不安な境遇に居るに違ないとは思ふけれども、或は何の方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確める為に、平岡の後を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪んでもゐなかつた。平岡の為にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。