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それから 十の五

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それから 十の五

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夏目漱石

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 三千代の頬に漸やく色が出て来た。袂から手帛を取り出して、口の辺を拭きながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗つて本郷迄買物に出るんだが、人に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云ふので、此間から一二度此方の方へ出て来て見た。此前も寄る筈であつたが、つい遅くなつたので急いで帰つた。今日は其積で早く宅を出た。が、御息み中だつたので、又通り迄行つて買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。所が天気模様が悪くなつて、藁店を上がり掛けるとぽつ/\降り出した。傘を持つて来なかつたので、濡れまいと思つて、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障つて、息が苦しくなつて困つた。――

「けれども、慣れつこに為てるんだから、驚ろきやしません」と云つて、代助を見て淋しい笑ひ方をした。

「心臓の方は、まだ悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな顔で尋ねた。

「悉皆善くなるなんて、生涯駄目ですわ」

 意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでゐなかつた。繊い指を反して穿めてゐる指環を見た。それから、手帛を丸めて、又袂へ入れた。代助は眼を俯せた女の額の、髪に連なる所を眺めてゐた。

 すると、三千代は急に思ひ出した様に、此間の小切手の礼を述べ出した。其時何だか少し頬を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分つた。彼はそれを、貸借に関係した羞恥の血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐ他所へ外した。

 先刻三千代が提げて這入て来た百合の花が、依然として洋卓の上に載つてゐる。甘たるい強い香が二人の間に立ちつゝあつた。代助は此重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪へなかつた。けれども無断で、取り除ける程、三千代に対して思ひ切つた振舞が出来なかつた。

「此花は何うしたんです。買て来たんですか」と聞いた。三千代は黙つて首肯いた。さうして、

「好い香でせう」と云つて、自分の鼻を、瓣の傍迄持つて来て、ふんと嗅いで見せた。代助は思はず足を真直に踏ん張つて、身を後の方へ反らした。

「さう傍で嗅いぢや不可ない」

「あら何故」

「何故つて理由もないんだが、不可ない」

 代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。

「貴方、此花、御嫌なの?」

 代助は椅子の足を斜に立てゝ、身体を後へ伸した儘、答へをせずに、微笑して見せた。

「ぢや、買つて来なくつても好かつたのに。詰らないわ、回り路をして。御負に雨に降られ損なつて、息を切らして」

 雨は本当に降つて来た。雨滴が樋に集まつて、流れる音がざあと聞えた。代助は椅子から立ち上がつた。眼の前にある百合の束を取り上げて、根元を括つた濡藁をり切つた。

「僕に呉れたのか。そんなら早く活けやう」と云ひながら、すぐ先刻の大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しさうになる。代助は滴る茎を又鉢から抜いた。さうして洋卓の引出から西洋鋏を出して、ぷつり/\と半分程の長さに剪り詰めた。さうして、大きな花を、リリー、オフ、ゼ、レーの簇がる上に浮かした。

「さあ是で好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代は此不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然、

「あなた、何時から此花が御嫌になつたの」と妙な質問をかけた。

 昔し三千代の兄がまだ生きてゐる時分、ある日何かのはづみに、長い百合を買つて、代助が谷中の家を訪ねた事があつた。其時彼は三千代に危しげな花瓶の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直つて眺めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。

「貴方だつて、鼻を着けて嗅いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。