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それから 十二の二

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それから 十二の二

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夏目漱石

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 代助は其夜すぐ立たうと思つて、グラツドストーンの中を門野に掃除さして、携帯品を少し詰め込んだ。門野は少なからざる好奇心を以て、代助の革鞄を眺めてゐたが、

「少し手伝ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、

「なに、訳はない」と断わりながら、一旦詰め込んだ香水の壜を取り出して、封被を剥いで、栓を抜いて、鼻に当てゝ嗅いで見た。門野は少し愛想を尽した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三分すると又出て来て、

「先生、車を左様云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顔を上げた。

「左様、少し待つて呉れ給へ」

 庭を見ると、生垣の要目の頂に、まだ薄明るい日足がうろついてゐた。代助は外を覗きながら、是から三十分のうちに行く先を極めやうと考へた。何でも都合のよささうな時間に出る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の宿泊を続けるとすれば、一週間も保たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。愈となれば、家から金を取り寄せる気でゐた。それから、本来が四辺の風気を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、荷持を雇つて、一日歩いても可いと覚悟した。

 彼は又旅行案内を開いて、細かい数字を丹念に調べ出したが、少しも決定の運に近寄らないうちに、又三千代の方に頭が滑つて行つた。立つ前にもう一遍様子を見て、それから東京を出やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは今夜中に始末を付けて、明日の朝早く提げて行かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄出た。其音を聞き付けて、門野も飛び出した。代助は不断着の儘、掛釘から帽子を取つてゐた。

「又御出掛ですか。何か御買物ぢやありませんか。私で可ければ買つて来ませう」と門野が驚ろいた様に云つた。

「今夜は已めだ」と云ひ放した儘、代助は外へ出た。外はもう暗かつた。美くしい空に星がぽつ/\影を増して行く様に見えた。心持の好い風が袂を吹いた。けれども長い足を大きく動かした代助は、二三町も歩かないうちに額際に汗を覚えた。彼は頭から鳥打を脱つた。黒い髪を夜露に打たして、時々帽子をわざと振つて歩いた。

 平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が蝙蝠の如く静かに其所、此所に動いた。粗末な板塀の隙間から、洋燈の灯が往来へ映つた。三千代は其光の下で新聞を読んでゐた。今頃新聞を読むのかと聞いたら、二返目だと答へた。

「そんなに閑なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移して、椽側へ半分身体を出しながら、障子へ倚りかゝつた。

 平岡は居なかつた。三千代は今湯から帰つた所だと云つて、団扇さへ膝の傍に置いてゐた。平生の頬に、心持暖い色を出して、もう帰るでせうから、緩くりしてゐらつしやいと、茶の間へ茶を入れに立つた。髪は西洋風に結つてゐた。

 平岡は三千代の云つた通りには中々帰らなかつた。何時でも斯んなに遅いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ左んな所でせうと答へた。代助は其笑の中に一種の淋しさを認めて、眼を正して、三千代の顔を凝と見た。三千代は急に団扇を取つて袖の下を煽いだ。

 代助は平岡の経済の事が気に掛つた。正面から、此頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左様ですねと云つて、又前の様な笑ひ方をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、

「貴方には、左様見えて」と今度は向ふから聞き直した。さうして、手に持つた団扇を放り出して、湯から出たての奇麗な繊い指を、代助の前に広げて見せた。其指には代助の贈つた指環も、他の指環も穿めてゐなかつた。自分の記念を何時でも胸に描いてゐた代助には、三千代の意味がよく分つた。三千代は手を引き込めると同時に、ぽつと赤い顔をした。

「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。