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それから 十三の三

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それから 十三の三

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夏目漱石

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 翌日になつて、代助はとう/\又三千代に逢ひに行つた。其時彼は腹の中で、先達て置いて来た金の事を、三千代が平岡に話したらうか、話さなかつたらうか、もし話したとすれば何んな結果を夫婦の上に生じたらうか、それが気掛りだからと云ふ口実を拵らえた。彼は此気掛が、自分を駆つて、凝と落ち付かれない様に、東西に引張回した揚句、遂に三千代の方に吹き付けるのだと解釈した。

 代助は家を出る前に、昨夕着た肌着も単衣も悉く改めて気を新にした。外は寒暖計の度盛の日を逐ふて騰る頃であつた。歩いてゐると、湿つぽい梅雨が却つて待ち遠しい程熾んに日が照つた。代助は昨夕の反動で、此陽気な空気の中に落ちる自分の黒い影が苦になつた。広い鍔の夏帽を被りながら、早く雨季に入れば好いと云ふ心持があつた。其雨季はもう二三日の眼前に逼つてゐた。彼の頭はそれを予報するかの様に、どんよりと重かつた。

 平岡の家の前へ来た時は、曇つた頭を厚く掩ふ髪の根元が息切れてゐた。代助は家に入る前に先づ帽子を脱いだ。格子には締りがしてあつた。物音を目的に裏へ回ると、三千代は下女と張物をしてゐた。物置の横へ立て掛けた張板の中途から、細い首を前へ出して、曲みながら、苦茶々々になつたものを丹念に引き伸ばしつゝあつた手を留めて、代助を見た。一寸は何とも云はなかつた。代助も、しばらくは唯立つてゐた。漸くにして、

「又来ました」と云つた時、三千代は濡れた手を振つて、馳け込む様に勝手から上がつた。同時に表へ回れと眼で合図をした。三千代は自分で沓脱へ下りて、格子の締を外しながら、

「無用心だから」と云つた。今迄日の透る澄んだ空気の下で、手を動かしてゐた所為で、頬の所が熱つて見えた。それが額際へ来て何時もの様に蒼白く変つてゐる辺に、汗が少し煮染み出した。代助は格子の外から、三千代の極めて薄手な皮膚を眺めて、戸の開くのを静かに待つた。三千代は、

「御待遠さま」と云つて、代助を誘ふ様に、一足横へ退いた。代助は三千代とすれ/\になつて内へ這入つた。座敷へ来て見ると、平岡の机の前に、紫の座蒲団がちやんと据ゑてあつた。代助はそれを見た時一寸厭な心持がした。土の和れない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しく生えた。

 代助は又忙がしい所を、邪魔に来て済まないといふ様な尋常な云訳を述べながら、此無趣味な庭を眺めた。其時三千代をこんな家へ入れて置くのは実際気の毒だといふ気が起つた。三千代は水いぢりで爪先の少しふやけた手を膝の上に重ねて、あまり退屈だから張物をしてゐた所だと云つた。三千代の退屈といふ意味は、夫が始終外へ出てゐて、単調な留守居の時間を無聊に苦しむと云ふ事であつた。代助はわざと、

「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒涼な胸の中を代助に訴へる様子もなかつた。黙つて、次の間へ立つて行つた。用簟笥の環を響かして、赤い天鵞絨で張つた小さい箱を持つて出て来た。代助の前へ坐つて、それを開けた。中には昔し代助の遣つた指環がちやんと這入つてゐた。三千代は、たゞ

「可でせう、ね」と代助に謝罪する様に云つて、すぐ又立つて次の間へ行つた。さうして、世の中を憚かる様に、記念の指環をそこ/\に用簟笥に仕舞つて元の坐に戻つた。代助は指環に就ては何事も語らなかつた。庭の方を見て、

「そんなに閑なら、庭の草でも取つたら、何うです」と云つた。すると今度は三千代の方が黙つて仕舞つた。それが、少時続いた後で代助は又改ためて聞いた。

「此間の事を平岡君に話したんですか」

 三千代は低い声で、

「いゝえ」と答へた。

「ぢや、未だ知らないんですか」と聞き返した。

 其時三千代の説明には、話さうと思つたけれども、此頃平岡はついぞ落ち付いて宅にゐた事がないので、つい話しそびれて未だ知らせずにゐると云ふ事であつた。代助は固より三千代の説明を嘘とは思はなかつた。けれども、五分の閑さへあれば夫に話される事を、今日迄それなりに為てあるのは、三千代の腹の中に、何だか話し悪い或蟠まりがあるからだと思はずにはゐられなかつた。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にして仕舞つたと代助は考へた。けれども夫は左程に代助の良心を螫すには至らなかつた。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡も此結果に対して明かに責を分たなければならないと思つたからである。