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それから 十三の五
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夏目漱石
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しばらく黙然として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞいて行つて、普通よりは眼に付く程蒼白くなつた。其時代助は三千代と差向で、より長く坐つてゐる事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準縄の埒を踏み超えさせるのは、今二三分の裡にあつた。代助は固より夫より先へ進んでも、猶素知らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞を用ひる意志は毫もなかつた。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでゐた。代助は辛うじて、今一歩と云ふ際どい所で、踏み留まつた。帰る時、三千代は玄関迄送つて来て、
「淋しくつて不可ないから、又来て頂戴」と云つた。下女はまだ裏で張物をしてゐた。
表へ出た代助は、ふら/\と一丁程歩いた。好い所で切り上げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼の心にはさう云ふ満足が些とも無かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命ずるが儘に、話し尽して帰れば可かつたといふ後悔もなかつた。彼は、彼所で切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、此前逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出した。代助は二人の過去を順次に溯ぼつて見て、いづれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其重量の為に、足がふらついた。家に帰つた時、門野が、
「大変顔の色が悪い様ですね、何うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行つて、蒼い額から奇麗に汗を拭き取つた。さうして、長く延び過ぎた髪を冷水に浸した。
それから二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乗つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の為に充分話をする決心であつた。給仕に名刺を渡して、埃だらけの受付に待つてゐる間、彼はしばしば袂から手帛を出して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接間へ案内された。其所は風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であつた。代助は此所で烟草を一本吹かした。編輯室と書いた戸口が始終開いて、人が出たり這入つたりした。代助の逢ひに来た平岡も其戸口から現はれた。先達て見た夏服を着て、相変らず奇麗な襟とカフスを掛けてゐた。忙しさうに、
「やあ、暫く」と云つて代助の前に立つた。代助も相手に唆かされた様に立ち上がつた。二人は立ちながら一寸話をした。丁度編輯のいそがしい時で緩くり何うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出して見て、
「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、夫でも涼しい風が吹いた。
代助はあてもなく、其所いらを逍遥いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話を切り出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為に外ならなかつた。けれども、夫が為に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はなかつた。代助は三千代と相対づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を有たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風に捲き込まれた冒険の働きであつた。其所に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫に気が付いてゐなかつた。一時間の後彼は又編輯室の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。