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それから 十四の七

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それから 十四の七

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夏目漱石

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 雨は翌日迄晴れなかつた。代助は湿つぽい椽側に立つて、暗い空模様を眺めて、昨夕の計画を又変えた。彼は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已むなくんば、蒼い空の下と思つてゐたが、此天気では夫も覚束なかつた。と云つて、平岡の家へ出向く気は始めから無かつた。彼は何うしても、三千代を自分の宅へ連れて来るより外に道はないと極めた。門野が少し邪魔になるが、話のし具合では書生部屋に洩れない様にも出来ると考へた。

 午少し前迄は、ぼんやり雨を眺めてゐた。午飯を済ますや否や、護謨の合羽を引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下迄来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方から行く積であるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達ての事は、まだ父に話さないでゐるから、もう一遍よく考へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に号鈴を鳴らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出てゐると云ふ返事を得た。代助は雨を衝いて又坂を上つた。花屋へ這入つて、大きな白百合の花を沢山買つて、夫を提げて、宅へ帰つた。花は濡れた儘、二つの花瓶に分けて挿した。まだ余つてゐるのを、此間の鉢に水を張つて置いて、茎を短かく切つて、はぱ/\放り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書いた。文句は極めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛つて、御話ししたい事があるから来て呉れろと云ふ丈であつた。

 代助は手を打つて、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現れた。手紙を受取りながら、

「大変好い香ですな」と云つた。代助は、

「車を持つて行つて、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけの帳場迄出て行つた。

 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩ふ強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼は此嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。其過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纏はつてゐた。彼はしばらくして、

「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始から何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸であつた。だから凡てが美しかつた。

 やがて、夢から覚めた。此一刻の幸から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失つた。彼は黙然として、我と吾手を眺めた。爪の甲の底に流れてゐる血潮が、ぶる/\顫へる様に思はれた。彼は立つて百合の花の傍へ行つた。唇が瓣に着く程近く寄つて、強い香を眼の眩う迄嗅いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽せて、失心して室の中に倒れたかつた。彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間を往つたり来たりした。彼の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼は時々椅子の角や、洋卓の前へ来て留まつた。それから又歩き出した。彼の心の動揺は、彼をして長く一所に留まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為に、無暗な所に立ち留まらざるを得なかつた。

 其内に時は段々移つた。代助は断えず置時計の針を見た。又覗く様に、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空から真直に降つてゐた。空は前よりも稍暗くなつた。重なる雲が一つ所で渦を捲いて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。其時雨に光る車を門から中へ引き込んだ。輪の音が、雨を圧して代助の耳に響いた時、彼は蒼白い頬に微笑を洩しながら、右の手を胸に当てた。