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それから 十四の九
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夏目漱石
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三千代の兄と云ふのは寧ろ豁達な気性で、懸隔てのない交際振から、友達には甚く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此兄は自分が豁達である丈に、妹の大人しいのを可愛がつてゐた。国から連れて来て、一所に家を持つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情合と、現在自分の傍に引き着けて置きたい欲望とからであつた。彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打ち明けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
三千代が来てから後、兄と代助とは益親しくなつた。何方が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分らなかつた。兄が死んだ後で、当時を振り返つて見る毎に、代助は此親密の裡に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。兄は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯くして、相互の思はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄は在生中に此意味を私に三千代に洩らした事があるかどうか、其所は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
代助は其頃から趣味の人として、三千代の兄に臨んでゐた。三千代の兄は其方面に於て、普通以上の感受性を持つてゐなかつた。深い話になると、正直に分らないと自白して、余計な議論を避けた。何処からか arbiter elegantiarum と云ふ字を見付出して来て、それを代助の異名の様に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は隣りの部屋で黙つて兄と代助の話を聞いてゐた。仕舞にはとう/\ arbiter elegantiarum と云ふ字を覚えた。ある時其意味を兄に尋ねて、驚ろかれた事があつた。
兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。後から顧みると、自ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より喜んで彼の指導を受けた。三人は斯くして、巴の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴の輪は回るに従つて次第に狭まつて来た。遂に三巴が一所に寄つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠けたため、残る二つは平衡を失なつた。
代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて来た。二人の距離は又元の様に近くなつた。
「あの時兄さんが亡くならないで、未だ達者でゐたら、今頃私は何うしてゐるでせう」と三千代は、其時を恋しがる様に云つた。
「兄さんが達者でゐたら、別の人になつて居る訳ですか」
「別な人にはなりませんわ。貴方は?」
「僕も同じ事です」
三千代は其時、少し窘める様な調子で、
「あら嘘」と云つた。代助は深い眼を三千代の上に据ゑて、
「僕は、あの時も今も、少しも違つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは眼を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を外らした。さうして、半ば独り言の様に、
「だつて、あの時から、もう違つてゐらしつたんですもの」と云つた。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過た。代助は消えて行く影を踏まへる如くに、すぐ其尾を捕えた。
「違やしません。貴方にはたゞ左様見える丈です。左様見えたつて仕方がないが、それは僻目だ」
代助の方は通例よりも熱心に判然した声で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益低かつた。
「僻目でも何でも可くつてよ」
代助は黙つて三千代の様子を窺つた。三千代は始めから、眼を伏せてゐた。代助には其長い睫毛の顫へる様が能く見えた。