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それから 十四の十
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夏目漱石
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「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。僕は夫丈の事を貴方に話したい為にわざ/\貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた。但、夫丈の事を語る為に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫へる睫毛の間から、涙を頬の上に流した。
「僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。承知して下さい」
三千代は猶泣いた。代助に返事をする所ではなかつた。袂から手帛を出して顔へ当てた。濃い眉の一部分と、額と生際丈が代助の眼に残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺り寄せた。
「承知して下さるでせう」と耳の傍で云つた。三千代は、まだ顔を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余りだわ」と云ふ声が手帛の中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙と涙の間をぼつ/\綴る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮然として口を閉ぢた。三千代は急に手帛を顔から離した。瞼の赤くなつた眼を突然代助の上につて、
「打ち明けて下さらなくつても可いから、何故」と云ひ掛けて、一寸躇したが、思ひ切つて、「何故棄てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又手帛を顔に当てゝ又泣いた。
「僕が悪い。堪忍して下さい」
代助は三千代の手頸を執つて、手帛を顔から離さうとした。三千代は逆はうともしなかつた。手帛は膝の上に落ちた。三千代は其膝の上を見た儘、微かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元の肉が顫ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈の罰を受けてゐます」
三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、
「何うして」と聞いた。
「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でゐます」
「だつて、夫は貴方の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰はうと思つても、貰へないのです。それから以後、宅のものから何遍結婚を勧められたか分りません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度も亦一人断りました。其結果僕と僕の父との間が何うなるか分りません。然し何うなつても構はない、断るんです。貴方が僕に復讐してゐる間は断らなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼を働かした。「私は是でも、嫁に行つてから、今日迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません」と稍改たまつた物の言ひ振であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたいのです。それが本望なのです。今日斯うやつて、貴方を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」