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それから 十四の十一

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それから 十四の十一

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夏目漱石

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 三千代は涙の中で始めて笑つた。けれども一言も口へは出さなかつた。代助は猶己れを語る隙を得た。――

「僕は今更こんな事を貴方に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘です。だから詫るんです」

「残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃して頂戴」

 三千代の調子は、此時急に判然した。沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又

「たゞ、もう少し早く云つて下さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――

「ぢや僕が生涯黙つてゐた方が、貴方には幸福だつたんですか」

「左様ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私だつて、貴方が左様云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」

 今度は代助の方が微笑した。

「夫ぢや構はないでせう」

「構はないより難有いわ。たゞ――」

「たゞ平岡に済まないと云ふんでせう」

 三千代は不安らしく首肯いた。代助は斯う聞いた。――

「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方は平岡を愛してゐるんですか」

 三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。

「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」

 三千代は矢張り俯つ向いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛つた時、三千代は不意に顔を上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇は確として、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。

「仕様がない。覚悟を極めませう」

 代助は脊中から水を被つた様に顫へた。社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人対ひ合つて、互を穴の明く程眺めてゐた。さうして、凡てに逆つて、互を一所に持ち来たした力を互と怖れ戦いた。

 しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかつた。肱を突いて額を五指の裏に隠した。二人は此態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝としてゐた。

 二人は斯う凝としてゐる中に、五十年を眼のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。さうして其緊張と共に、二人が相並んで存在して居ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑と愛の賚とを同時に享けて、同時に双方を切実に味はつた。

 しばらくして、三千代は手帛を取つて、涙を奇麗に拭いたが、静かに、

「私もう帰つてよ」と云つた。代助は、

「御帰りなさい」と答へた。

 雨は小降になつたが、代助は固より三千代を独り返す気はなかつた。わざと車を雇はずに、自分で送つて出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲る迄見送つてゐた。夫から緩くり歩を回らしながら、腹の中で、

「万事終る」と宣告した。

 雨は夕方歇んで、夜に入つたら、雲がしきりに飛んだ。其中洗つた様な月が出た。代助は光を浴びる庭の濡葉を長い間椽側から眺めてゐたが、仕舞に下駄を穿いて下へ降りた。固より広い庭でない上に立木の数が存外多いので、代助の歩く積はたんと無かつた。代助は其真中に立つて、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、昼間買つた百合の花を取つて来て、自分の周囲に蒔き散らした。白い花瓣が点々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇に仄めいた。代助は何をするともなく其間に曲んでゐた。

 寐る時になつて始めて座敷へ上がつた。室の中は花の香がまだ全く抜けてゐなかつた。