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それから 十五の五
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夏目漱石
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けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意に叶ふ様な当座の孝行は代助には出来かねた。彼は元来が何方付かずの男であつた。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも露に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付とも思はれる遣口であつた。彼自身さへ、此二つの非難の何れを聞いた時に、左様かも知れないと、腹の中で首を捩らぬ訳には行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く両つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に物に向つて突進する勇気を挫かれた。即かず離れず現状に立ち竦んでゐる事が屡あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、彼が犯すべからざる敢為の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解つたのである。三千代の場合は、即ち其適例であつた。
彼は三千代の前に告白した己れを、父の前で白紙にしやうとは想ひ到らなかつた。同時に父に対しては、心から気の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして明らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる為の結婚を承諾するに外ならなかつた。代助は斯くして双方を調和する事が出来た。何方付かずに真中へ立つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今の彼は、不断の彼とは趣を異にしてゐた。再び半身を埒外に挺でて、余人と握手するのは既に遅かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた。
彼は平生の代助の如く、成る可く口数を利かずに控えてゐた。父から見れば何時もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて父の変つてゐるのに驚ろいた。実は此間から幾度も会見を謝絶されたのも、自分が父の意志に背く恐があるから父の方でわざと、延ばしたものと推してゐた。今日逢つたら、定めて苦い顔をされる事と覚悟を極めてゐた。ことによれば、頭から叱り飛ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方が都合が好かつた。三分の一は、父の暴怒に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然断らうと云ふ下心さへあつた。代助は父の様子、父の言葉遣、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍らせる傾向に出たのを心苦しく思つた。けれども彼は此心苦しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄へた。
「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう/\云つて仕舞つた。其時父はたゞ代助の顔を見てゐた。良あつて、
「勇気が要るのかい」と手に持つてゐた烟管を畳の上に放り出した。代助は膝頭を見詰めて黙つてゐた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又聞いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄父に対して己れの四半分も打ち明けてはゐなかつた。その御蔭で父と平和の関係を漸く持続して来た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠す気はなかつた。自分の頭の上に当然落ちかゝるべき結果を、策で避ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口へは出さなかつた。父は最後に、
「ぢや何でも御前の勝手にするさ」と云つて苦い顔をした。
代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして父の前を退がらうとした。ときに父は呼び留めて、
「己の方でも、もう御前の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、
「何うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。