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それから 十六の二
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夏目漱石
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中二日置いて三千代が来る迄、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかつた。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書で焼き付けられてゐた。それを押し退けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂つた。それが影を隠すと、三千代の未来が凄じく荒れた。彼の頭には不安の旋風が吹き込んだ。三つのものが巴の如く瞬時の休みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼は船に乗つた人と一般であつた。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いてゐた。
青山の宅からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽つた。門野は此暑さに自分の身体を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口を動かした。それでも話し草臥れると、
「先生、将棋は何うです」抔と持ち掛けた。夕方には庭に水を打つた。二人共跣足になつて、手桶を一杯宛持つて、無分別に其所等を濡らして歩いた。門野が隣の梧桐の天辺迄水にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上げる拍子に、滑つて尻持を突いた。白粉草が垣根の傍で花を着けた。手水鉢の蔭に生えた秋海棠の葉が著るしく大きくなつた。梅雨は漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となつた。強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
代助は夜に入つて頭の上の星ばかり眺めてゐた。朝は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が聞える様になつた。風呂場へ行つて、度々頭を冷した。すると門野がもう好い時分だと思つて、
「何うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて来た。代助は斯う云ふ上の空の生活を二日程送つた。三日目の日盛に、彼は書斎の中から、ぎら/\する空の色を見詰めて、上から吐き下す焔の息を嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた為であつた。
三千代は此暑を冒して前日の約を履んだ。代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び出した。三千代は傘をつぼめて、風呂敷包を抱へて、格子の外に立つてゐた。不断着の儘宅を出たと見えて、質素な白地の浴衣の袂から手帛を出し掛けた所であつた。代助は其姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「馳落でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穏かに、
「でも買物をした序でないと上り悪いから」と真面目な答をして、代助の後に跟いて奥迄這入つて来た。代助はすぐ団扇を出した。照り付けられた所為で三千代の頬が心持よく輝やいた。何時もの疲れた色は何処にも見えなかつた。眼の中にも若い沢が宿つてゐた。代助は生々した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の裡に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出したら悲しくなつた。彼は今日も此美くしさの一部分を曇らす為に三千代を呼んだに違なかつた。
代助は幾度か己れを語る事を躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下に、一切を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
代助は漸くにして思ひ切つた。
「其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか」
三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。
「あつたつて、構はないわ」
「貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」
「信用してゐなくつちや、斯うして居られないぢやありませんか」
代助は目映しさうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。