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門 第十章
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夏目漱石
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佐伯の叔母も安之助も其後頓と宗助の宅へは見えなかつた。宗助は固より麹町へ行く餘暇を有たなかつた。又夫丈の興味もなかつた。親類とは云ひながら、別々の日が二人の家を照らしてゐた。
たゞ小六丈が時々話しに出掛ける樣子であつたが、是とても、さう繁々足を運ぶ譯でもないらしかつた。それに彼は歸つて來て、叔母の家の消息を殆んど御米に語らないのを常として居つた。御米はこれを故意から出る小六の仕打かとも疑つた。然し自分が佐伯に對して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動靜を耳にしない方を、却つて喜こんだ。
それでも時々は、先方の樣子を、小六と兄の對話から聞き込む事もあつた。一週間程前に、小六は兄に、安之助がまた新發明の應用に苦心してゐる話をした。それは印氣の助けを借らないで、鮮明な印刷物を拵らえるとか云ふ、一寸聞くと頗る重寶な器械に就てであつた。話題の性質から云つても、自分とは全く利害の交渉のない六づかしい事なので、御米は例の通り默つて口を出さずにゐたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、何うして印氣を使はずに印刷が出來るか抔と問ひ糺してゐた。
專門上の知識のない小六が、精密な返答をし得る筈は無論なかつた。彼はたゞ安之助から聞いた儘を、覺えてゐる限り念を入れて説明した。此印刷術は近來英國で發明になつたもので、根本的にいふと矢張り電氣の利用に過ぎなかつた。電氣の一極を活字と結び付けて置いて、他の一極を紙に通じて、其紙を活字の上へ壓し付けさへすれば、すぐ出來るのだと小六が云つた。色は普通黒であるが、手加減次第で赤にも青にもなるから色刷抔の場合には、繪の具を乾かす時間が省ける丈でも大變重寶で、是を新聞に應用すれば、印氣や印氣ロールの費を節約する上に、全體から云つて、少くとも從來の四分の一の手數がなくなる點から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六は又安之助の話した通りを繰り返した。さうして其有望な前途を、安之助が既に手の中に握つたかの如き口氣であつた。かつ其多望な安之助の未來のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれてゐる樣に、眼を輝やかした。其時宗助は何時もの調子で、寧ろ穩やかに、弟の云ふ事を聞いてゐたが、聞いてしまつた後でも、別に是といふ眼立つた批評は加へなかつた。實際斯んな發明は、宗助から見ると、本當の樣でもあり、又嘘の樣でもあり、愈それが世間に行はれる迄は、贊成も反對も出來かねたのである。
「ぢや鰹船の方はもう止したの」と、今迄默つてゐた御米が、此時始めて口を出した。
「止したんぢやないんですが、あの方は費用が隨分掛るので、いくら便利でも、さう誰も彼も拵える譯に行かないんださうです」と小六が答へた。小六は幾分か安之助の利害を代表してゐる樣な口振であつた。夫から三人の間に、しばらく談話が交換されたが、仕舞に、
「矢張何をしたつて、さう旨く行くもんぢやあるまいよ」と云つた宗助の言葉と、
「坂井さん見た樣に、御金があつて遊んでゐるのが一番可いわね」と云つた御米の言葉を聞いて、小六は又自分の部屋へ歸つて行つた。
斯う云ふ機會に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へ洩れる事はあるが、其外には、全く何をして暮らしてゐるか、互に知らないで過す月日が多かつた。
ある時御米は宗助に斯んな問を掛けた。
「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣でも貰つて來るんでせうか」
今迄小六に就て、夫程の注意を拂つてゐなかつた宗助は、突然此問に逢つて、すぐ、「何故」と聞き返した。御米はしばらく逡巡つた末、
「だつて、此頃能く御酒を呑んで歸つて來る事があるのよ」と注意した。
「安さんが例の發明や、金儲けの話をするとき、其聞き賃に奢るのかも知れない」と云つて宗助は笑つてゐた。會話はそれなりでつい發展せずに仕舞つた。
越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時を外して歸つて來なかつた。しばらく待ち合せてゐたが、宗助はついに空腹だとか云ひ出して、一寸湯にでも行つて、時間を延ばしたらといふ御米の小六に對する氣兼に頓着なく、食事を始めた。其時御米は夫に、
「小六さんに御酒を止める樣に、貴方から云つちや不可なくつて」と切り出した。
「そんなに意見しなければならない程飮むのか」と宗助は少し案外な顏をした。
御米は夫程でもないと、辯護しなければならなかつた。けれども實際は誰もゐない晝間のうち抔に、あまり顏を赤くして歸つて來られるのが、不安だつたのである。宗助は夫なり放つて置いた。然し腹の中では、果して御米の云ふ如く、何所かで金を借りるか、貰ふかして、夫程好きもしないものを、わざと飮むのではなからうかと疑ぐつた。
其うち年が段々片寄つて、夜が世界の三分の二を領する樣に押し詰つて來た。風が毎日吹いた。其音を聞いてゐる丈でも、生活に陰氣な響を與へた。小六はどうしても、六疊に籠つて、一日を送るに堪えなかつた。落ち付いて考へれば考へる程、頭が淋しくつて、居たゝまれなくなる許であつた。茶の間へ出て嫂と話すのは猶厭であつた。已を得ず外へ出た。さうして友達の宅をぐる/\回つて歩いた。友達も始のうちは、平生の小六に對する樣に、若い學生のしたがる面白い話を幾何でもした。けれども小六はさう云ふ話が盡きても、まだ遣つて來た。それで仕舞には、友達が、小六は、退屈の餘りに訪問をして、談話の復習に耽るものだと評した。たまには學校の下讀やら研究やらに追はれてゐる多忙の身だと云ふ風もして見せた。小六は友達からさう呑氣な怠けものゝ樣に取り扱はれるのを、大變不愉快に感じた。けれども宅に落ち付いては、讀書も思索も、丸で出來なかつた。要するに彼位の年輩の青年が、一人前の人間になる楷梯として、修むべき事、力むべき事には、内部の動搖やら、外部の束縛やらで、一切手が着かなかつたのである。
夫でも冷たい雨が横に降つたり、雪融の道がはげしく泥つたりする時は、着物を濡らさなければならず、足袋の泥を乾かさなければならない面倒があるので、如何な小六も時によると、外出を見合せる事があつた。さう云ふ日には、實際困却すると見えて、時々六疊から出て來て、のそりと火鉢の傍へ坐つて、茶などを注いで飮んだ。さうして其所に御米でもゐると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかつた。
「小六さん御酒好き」と御米が聞いた事があつた。
「もう直御正月ね。貴方御雜いくつ上がつて」と聞いた事もあつた。
さう云ふ場合が度重なるに連れて、二人の間は少しづゝ近寄る事が出來た。仕舞には、姉さん一寸こゝを縫つて下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼む樣になつた。さうして御米が絣の羽織を受取つて、袖口の綻を繕つてゐる間、小六は何にもせずに其所へ坐つて、御米の手先を見詰めてゐた。これが夫だと、何時迄も默つて針を動かすのが、御米の例であつたが、相手が小六の時には、さう投遣に出來ないのが、又御米の性質であつた。だからそんな時には力めても話をした。話の題目で、稍ともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未來を何うしたら好からうと云ふ心配であつた。
「だつて小六さんなんか、まだ若いぢやありませんか。何をしたつて是からだわ。そりや兄さんの事よ。さう悲觀しても可いのわ」
御米は二度許り斯ういふ慰め方をした。三度目には、
「來年になれば、安さんの方で何うか都合して上るつて受合つて下すつたんぢやなくつて」と聞いた。小六は其時不慥な表情をして、
「そりや安さんの計畫が、口でいふ通り旨く行けば譯はないんでせうが、段々考へると、何だか少し當にならない樣な氣がし出してね。鰹船もあんまり儲からない樣だから」と云つた。御米は小六の憮然としてゐる姿を見て、それを時々酒氣を帶びて歸つて來る、何所かに殺氣を含んだ、しかも何が癪に障るんだか譯が分らないでゐて甚だ不平らしい小六と比較すると、心の中で氣の毒にもあり、又可笑しくもあつた。其時は、
「本當にね。兄さんにさへ御金があると、何うでもして上げる事が出來るんだけれども」と、御世辭でも何でもない、同情の意を表した。
其夕暮であつたか、小六は又寒い身體を外套に包んで出て行つたが、八時過に歸つて來て、兄夫婦の前で、袂から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麥掻を拵らえて食はうと思つて、佐伯へ行つた歸りに買つて來たと云つた。さうして御米が湯を沸かしてゐるうちに、出しを拵えるとか云つて、しきりに鰹節を掻いた。
其時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとう/\春迄延びた事を聞いた。此縁談は安之助が學校を卒業すると間もなく起つたもので、小六が房州から歸つて、叔母に學資の供給を斷わられる時分には、もう大分話が進んでゐたのである。正式の通知が來ないので、何時纏つたか、宗助は丸で知らなかつたが、たゞ折々佐伯へ行つては、何か聞いて來る小六を通じてのみ、彼は年内に式を擧げる筈の新夫婦を豫想した。其他には、嫁の里がある會社員で、有福な生計をしてゐる事と、其學校が女學館であるといふ事と、兄弟が澤山あると云ふ事丈を、同じく小六を通じて耳にした。寫眞にせよ顏を知つてるのは小六許であつた。
「好い器量?」と御米が聞いた事がある。
「まあ好い方でせう」と小六が答へた事がある。
其晩は何故暮のうちに式を濟まさないかと云ふのが、蕎麥掻の出來上る間、三人の話題になつた。御米は方位でも惡いのだらうと臆測した。宗助は押し詰つて日がないからだらうと考へた。獨り小六丈が、
「矢張り物質的の必要かららしいです。先が何でも餘程派出な家なんで、叔母さんの方でもさう單簡に濟まされないんでせう」と何時にない世帶染みた事を云つた。