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三四郎 十の八

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三四郎 十の八

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夏目金之助

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 やがて、女の方から口を利き出した。

「今日何か原口さんに御用が御有りだつたの」

「いゝえ、用事は無かつたです」

「ぢや、たゞ遊びに入らしつたの」

「いゝえ、遊びに行つたんぢやありません」

「ぢや、何んで入らしつたの」

 三四郎は此瞬間を捕へた。

「あなたに会ひに行つたんです」

 三四郎は是で云へる丈の事を悉く云つた積りである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、例の如く男を酔はせる調子で、

「御金は、彼所ぢや頂けないのよ」と云つた。三四郎は落胆した。

 二人は又無言で五六間来た。三四郎は突然口を開いた。

「本当は金を返しに行つたのぢやありません」

 美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、静かに云つた。

「御金は私も要りません。持つて入らつしやい」

 三四郎は堪へられなくなつた。急に、

「たゞ、あなたに会ひたいから行つたのです」と云つて、横に女の顔を覗き込んだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口を洩れた微かな溜息が聞えた。

「御金は……」

「金なんぞ……」

 二人の会話は双方共意味を成さないで、途中で切れた。それなりで、又小半町程来た。今度は女から話し掛けた。

「原口さんの画を御覧になつて、どう御思ひなすつて」

 答へ方が色々あるので、三四郎は返事をせずに少しの間歩いた。

「余り出来方が早いので御驚ろきなさりやしなくつて」

「えゝ」と云つたが、実は始めて気が付いた。考へると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像を描く意志を洩らしてから、まだ一ヶ月位にしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼してゐたのは、夫より後の事である。三四郎は画の道に暗いから、あんな大きな額が、何の位な速度で仕上られるものか、殆んど想像の外にあつたが、美禰子から注意されて見ると、余り早く出来過ぎてゐる様に思はれる。

「何時から取掛つたんです」

「本当に取り掛つたのは、つい此間ですけれども、其前から少し宛描いて頂だいてゐたんです」

「其前つて、何時頃からですか」

「あの服装で分るでせう」

 三四郎は突然として、始めて池の周囲で美禰子に逢つた暑い昔を思ひ出した。

「そら、あなた、椎の木の下に跼がんでゐらしつたぢやありませんか」

「あなたは団扇を翳して、高い所に立てゐた」

「あの画の通りでせう」

「えゝ。あの通りです」

 二人は顔を見合はした。もう少しで白山の坂の上へ出る。

 向から車が走けて来た。黒い帽子を被つて、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢の好い男が乗つてゐる。此車が三四郎の眼に這入つた時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間先へ来ると、車を急に留めた。前掛を器用に跳ね退けて、蹴込みから飛び下りた所を見ると、脊のすらりと高い細面の立派な人であつた。髭を奇麗に剃つてゐる。それでゐて、全く男らしい。

「今迄待つてゐたけれども、余り遅いから迎に来た」と美禰子の真前に立つた。見下して笑つてゐる。

「さう、難有う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼をすぐ三四郎の方へ向けた。

「何誰」と男が聞いた。

「大学の小川さん」と美禰子が答へた。

 男は軽く帽子を取つて、向から挨拶をした。

「早く行かう。兄さんも待つてゐる」

 好い具合に三四郎は追分へ曲るべき横町の角に立つてゐた。金はとう/\返さずに分れた。