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三四郎 十一の五
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夏目金之助
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与次郎は夫なり消えてなくなつた。いくら捕まへやうと思つても出て来ない。三四郎は已を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義が済んでから、昨夕の約束通り広田先生の家へ寄る。相変らず静かである。先生は茶の間に長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうか為すつたのかと聞くと、左うぢや無いのでせう、昨夕余り遅くなつたので、眠いと云つて、先刻御帰りになると、すぐ横に御成りなすつたのだと云ふ。長い身躯の上に小夜着が掛けてある。三四郎は小さな声で、又婆さんに、どうして、さう遅くなつたのかと聞いた。なに何時でも遅いのだが、昨夕のは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出だつたのだといふ答である。勉強が佐々木に代つたから、昼寐をする説明にはならないが、与次郎が、昨夕先生に例の話をした事丈は是で明瞭になつた。序でに与次郎が、どう叱られたか聞いて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の与次郎は学校で取り逃して仕舞つたから仕方がない。今日の元気の好い所を見ると、大した事件には成らずに済んだのだらう。尤も与次郎の心理現象は到底三四郎には解らないのだから、実際どんな事があつたか想像は出来ない。
三四郎は長火鉢の前へ坐つた。鉄瓶がちん/\鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引き取つた。三四郎は胡坐をかいて、鉄瓶に手を翳して、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は静かで好い心持になつた。爪で鉄瓶を敲いて見た。熱い湯を茶碗に注いでふう/\吹いて飲んだ。先生は向をむいて寐てゐる。二三日前に頭を刈つたと見えて、髪が甚だ短い。髭の端が濃く出てゐる。鼻も向ふを向ひてゐる。鼻の穴がすうすう云ふ。安眠だ。
三四郎は返さうと思つて、持つて来たハイドリオタフヒアを出して読み始めた。ぽつぽつ拾ひ読をする。中々解らない。墓の中に花を投げる事が書いてある。羅馬人は薔薇を affect すると書いてある。何の意味だか能く知らないが、大方好むとでも訳するんだらうと思つた。希臘人は Amaranth を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ない。夫から少し先へ行くと、丸で解らなくなつた。頁から眼を離して先生を見た。まだ寐てゐる。何で斯んな六づかしい書物を自分に借したものだらうと思つた。それから、此六かしい書物が、何故解らないながらも、自分の興味を惹くのだらうと思つた。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思つた。
さうすると、広田先生がむくりと起きた。首丈持上げて、三四郎を見た。
「何時来たの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出なさいと勧めた。実際退屈ではなかつたのである。先生は、
「いや起る」と云つて起きた。それから例の如く哲学の烟を吹き始めた。烟が沈黙の間に、棒になつて出る。
「難有う。書物を返します」
「あゝ。――読んだの」
「読んだけれどもよく解らんです。第一標題が解らんです」
「ハイドリオタフヒア」
「何の事ですか」
「何の事か僕にも分らない。兎に角希臘語らしいね」
三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けて仕舞つた。先生は欠を一つした。
「あゝ眠かつた。好い心持に寐た。面白い夢を見てね」
先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯に行かないかと云ひ出した。二人は手拭を提げて出掛けた。