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三四郎 十一の七
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夏目金之助
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広田先生は夫で話を切つた。鼻から例によつて烟を吐く。与次郎は此烟の出方で、先生の気分を窺ふ事が出来ると云つてゐる。濃く真直に迸しる時は、哲学の絶高頂に達した際で、緩く崩れる時は、心気平穏、ことによると冷かされる恐れがある。烟が、鼻の下に徊して、髭に未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔の先の渦である。渦が出ると、大変に叱られる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論当にはしない。然し此際だから気を付けて烟りの形状を眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たる烟は些とも出て、来ない。其代り出るものは、大抵な資格をみんな具へてゐる。
三四郎が何時迄立つても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又話し始めた。
「済んだ事は、もう已めやう。佐々木も昨夜悉く詫まつて仕舞つたから、今日あたりは又晴々して例の如く飛んで歩いてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つて歩いて居ては仕方がない。夫よりもつと面白い話を仕様」
「えゝ」
「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」
「えゝ。何んな女ですか」
「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子がある」
三四郎は十二三と聞いて少し失望した。
「何時頃御逢ひになつたのですか」
「廿年許前」
三四郎は又驚ろいた。
「善く其女と云ふ事が分りましたね」
「夢だよ。夢だから分るさ。さうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向は凝と立つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔しの髪である。黒子も無論あつた。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故斯う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美くしい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
「それから何うしました」と三四郎が聞いた。
「それから君が来たのさ」と云ふ。
「二十年前に逢つたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」
「本当の事実なんだから面白い」
「何所で御逢ひになつたんですか」
先生の鼻は又烟を吹き出した。其烟を眺めて、当分黙つてゐる。やがて斯う云つた。