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三四郎 十一の八
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夏目金之助
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「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺された。君は覚えてゐまい。幾年かな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢鉄砲を担いで出た。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内へ引張つて行つて、路傍へ整列さした。我々は其所へ立つたなり、大臣の柩を送る事になつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。動かずに立つてゐると、靴の下で足が痛む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来た。何でも長いものだつた。寒い眼の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。其中に今話した小さな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出さうとしても、ぼうとして迚も明瞭に浮んで来ない。たゞこの女丈は覚えてゐる。夫も年を経つに従つて段々薄らいで来た。今では思ひ出す事も滅多にない。今日夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持つてゐた。――妙なものだ」
「それから其女には丸で逢はないんですか」
「丸で逢はない」
「ぢや、何処の誰だか全く分らないんですか」
「無論分らない」
「尋ねて見なかつたですか」
「いゝや」
「先生は夫で……」と云つたが急に痞へた。
「夫で?」
「夫で結婚をなさらないんですか」
先生は笑ひ出した。
「それ程浪漫的な人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来てゐる」
「然し、もし其女が来たら御貰ひになつたでせう」
「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話し出した。
「その為に独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為に不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生れ付いて、結婚の出来ない不具もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」
「そんなに結婚を妨げる事情が世の中に沢山あるでせうか」
先生は烟の間から、凝と三四郎を見てゐた。
「ハムレツトは結婚したく無かつたんだらう。ハムレツトは一人しか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」
「例へばどんな人です」
「例へば」と云つて、先生は黙つた。烟がしきりに出る。「例へば、こゝに一人の男がゐる。父は早く死んで、母一人を頼に育つたとする。其母が又病気に罹つて、愈息を引き取るといふ、間際に、自分が死んだら誰某の世話になれといふ。子供が会つた事もない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某が御前の本当の御父だと微かな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」
「そんな人は滅多にないでせう」
「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」
「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」
先生はハヽヽヽと笑つた。
「君は慥か御母さんが居たね」
「えゝ」
「御父さんは」
「死にました」
「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」