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三四郎 十二の六

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三四郎 十二の六

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夏目金之助

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 晩になつて、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎へた覚がないんだから、始めは少し狼狽した。そのうち脈を取られたので漸く気が付いた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分の後病症はインフルエンザと極つた。今夜頓服を飲んで、成る可く風に当らない様にしろと云ふ注意である。

 翌日眼が覚めると、頭が大分軽くなつてゐる。寐てゐれば、殆んど常体に近い。たゞ枕を離れると、ふら/\する。下女が来て、大分部屋の中が熱臭いと云つた。三四郎は飯も食はずに、仰向に天井を眺めてゐた。時々うと/\眠くなる。明らかに熱と疲とに囚はれた有様である。三四郎は、囚はれた儘、逆らはずに、寐たり覚たりする間に、自然に従ふ一種の快感を得た。病症が軽いからだと思つた。

 四時間、五時間と経つうちに、そろ/\退屈を感じ出した。しきりに寐返りを打つ。外は好い天気である。障子に当る日が、次第に影を移して行く。雀が鳴く。三四郎は今日も与次郎が遊びに来て呉れゝば好いと思つた。

 所へ下女が障子を開けて、女の御客様だと云ふ。よし子が、さう早く来やうとは待ち設けなかつた。与次郎丈に敏捷な働きをした。寐た儘、開け放しの入口に眼を着けてゐると、やがて高い姿が敷居の上へあらはれた。今日は紫の袴を穿いてゐる。足は両方共廊下にある。一寸這入るのを躇した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「入らつしやい」と云つた。

 よし子は障子を閉てゝ、枕元へ坐つた。六畳の座敷が、取り乱してある上に、今朝は掃除をしないから、猶狭苦しい。女は、三四郎に、

「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又頭を枕へ着けた。自分丈は穏かである。

「臭くはないですか」と聞いた。

「えゝ、少し」と云つたが、別段臭い顔もしなかつた。「熱が御有なの。何なんでせう、御病気は。御医者は入らしつて」

「医者は昨夕来ました。インフルエンザださうです」

「今朝早く佐々木さんが御出になつて、小川が病気だから見舞に行つて遣つて下さい。何病だか分らないが、何でも軽くはない様だ。つて仰やるものだから、私も美禰子さんも吃驚したの」

 与次郎が又少し法螺を吹いた。悪く云へば、よし子を釣り出した様なものである。三四郎は人が好いから、気の毒でならない。「どうも難有う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包の中から、蜜柑の籃を出した。

「美禰子さんの御注意があつたから買つて来ました」と正直な事を云ふ。どつちの御見舞だか分らない。三四郎はよし子に対して礼を述べて置いた。

「美禰子さんも上る筈ですが、此頃少し忙しいものですから――どうぞ宜しくつて……」

「何か特別に忙がしい事が出来たのですか」

「えゝ。出来たの」と云つた。大きな黒い眼が、枕に着いた三四郎の顔の上に落ちてゐる。三四郎は下から、よし子の蒼白い額を見上げた。始めて此女に病院で逢つた昔を思ひ出した。今でも物憂げに見える。同時に快活である。頼になるべき凡ての慰藉を三四郎の枕の上に齎らして来た。

「蜜柑を剥いて上げませうか」

 女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香に迸しる甘い露を、したゝかに飲んだ。

「美味いでせう。美禰子さんの御見舞よ」

「もう沢山」

 女は袂から白い手帛を出して手を拭いた。

「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」

「あれ限りです」

「美禰子さんにも縁談の口があるさうぢやありませんか」

「えゝ、もう纏りました」

「誰ですか、先は」

「私を貰ふと云つた方なの。ほゝゝ可笑いでせう。美禰子さんの御兄いさんの御友達よ。私近い内に又兄と一所に家を持ちますの。美禰子さんが行つて仕舞ふと、もう御厄介になつてる訳に行かないから」

「あなたは御嫁には行かないんですか」

「行きたい所がありさへすれば行きますわ」

 女は斯う云ひ棄てゝ心持よく笑つた。まだ行きたい所がないに極つてゐる。