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三四郎 十二の七

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三四郎 十二の七

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夏目金之助

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 三四郎は其日から四日程床を離れなかつた。五日目に怖々ながら湯に入つて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋へ行つた。其明る日は日曜である。

 朝食後、襯衣を重ねて、外套を着て、寒くない様にして、美禰子の家へ行つた。玄関によし子が立つて、今沓脱へ降りやうとしてゐる。今兄の所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出た。

「もう悉皆好いんですか」

「難有う。もう癒りました。――里見さんは何所へ行つたんですか」

「兄さん?」

「いゝえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは会堂」

 美禰子の会堂へ行く事は始めて聞いた。何処の会堂か教へて貰つて、三四郎はよし子に別れた。横町を三つ程曲ると、すぐ前へ出た。三四郎は全く耶蘇教に縁のない男である。会堂の中は覗いて見た事もない。前へ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来たりした。ある時は寄り掛かつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出てくるのを待つ積である。

 やがて唱歌の声が聞へた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切つた高い窓のうちの出来事である。音量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好な雲が出た。

 かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端の小川の縁に坐つた事もあつた。其時も一人ではなかつた。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしてゐる。

 忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄めて、両手を前で重ねて、出来る丈外界との交渉を少なくしてゐる。美禰子は此凡てに揚がらざる態度を門際迄持続した。其時、往来の忙しさに、始めて気が付いた様に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映つた。二人は説教の掲示のある所で、互に近寄つた。

「何うなすつて」

「今御宅迄一寸出た所です」

「さう、ぢや入らつしやい」

 女は半ば歩を回しかけた。相変らず低い下駄を穿いてゐる。男はわざと会堂の垣に身を寄せた。

「此所で御目に掛かればそれで好い。先刻から、あなたの出て来るのを待つてゐた」

「御這入りになれば好いのに。寒かつたでせう」

「寒かつた」

「御風邪はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色が好くない様ね」

 男は返事をしずに、外套の隠袋から半紙に包んだものを出した。

「拝借した金です。永々難有う。返さう/\と思つて、つい遅くなつた」

 美禰子は一寸三四郎の顔を見たが、其儘逆らはずに、紙包を受け取つた。然し手に持つたなり、納はずに眺めてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少しの間切れた。やがて、美禰子が云つた。

「あなた、御不自由ぢや無くつて」

「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何うか取つて下さい」

「さう。ぢや頂いて置きませう」

 女は紙包を懐へ入れた。其手を吾妻コートから出した時、白い手帛を持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭どい香がぷんとする。

「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸る。

「結婚なさるさうですね」

 美禰子は白い手帛を袂へ落した。

「御存じなの」と云ひながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣い過ぎた眼付である。其癖眉丈は明確落ちついてゐる。三四郎の舌が上顎へ密着て仕舞つた。

 女はやゝしばらく三四郎を眺めた後、聞兼る程の嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加へて、云つた。

「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」

 聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様にして分れた。下宿へ帰つたら母からの電報が来てゐた。開けて見ると、何時立つとある。