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三四郎 二の四
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夏目金之助
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不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立で、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光を透してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇を額の所に翳してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮かに分つた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分つた。もう一人は真白である。是は団扇も何も持つて居ない。只額に少し皺を寄せて、対岸から生ひ被さりさうに、高く池の面に枝を伸した古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩土堤の縁から退がつてゐる。三四郎が見ると、二人の姿が筋違に見える。
此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。
三四郎は又見惚れてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動き方ではなかつた。自分の足が何時の間にか動いたといふ風であつた。見ると団扇を持つた女も何時の間にか又動いてゐる。二人は申し合せた様に用のない歩き方をして、坂を下りて来る。三四郎は矢っ張り見てゐた。
坂の下に石橋がある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際を伝つて此方へ来る。二人は石橋を渡つた。
団扇はもう翳して居ない。左りの手に白い小さな花を持つて、それを嗅ぎながら来る。嗅ぎながら、鼻の下に宛てがつた花を見ながら、歩くので、眼は伏せてゐる。それで三四郎から一間許の所へ来てひよいと留つた。
「是は何でせう」と云つて、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目の洩らない程厚い葉を茂らして、丸い形に、水際迄張り出してゐた。
「是は椎」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。
「さう。実は生つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔を元へ戻す、其拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥かに女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれた時の感じと何所か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。
二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今迄嗅いで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人の後姿を凝と見詰めて居た。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白い薄を染め抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇を一つ挿してゐる。其薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際立つて光つてゐた。
三四郎は茫然してゐた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舎出の青年には、凡て解らなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。
三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅いで見た。けれども別段の香もなかつた。三四郎は此花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。