← 作品

三四郎 三の五

title

三四郎 三の五

author

夏目金之助

body

 其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆んど、半分に減して仕舞つた。さうして図書館に這入つた。広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある建物であつた。書庫は入口しか見えない。此方の正面から覗くと奥には、書物がいくらでも備へ付けてある様に思はれる。立つて見てゐると、時々書庫の中から、厚い本を二三冊抱へて、出口へ来て左へ折れて行くものがある。職員閲覧室へ行く人である。中には必要の本を書棚から取り卸して、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎は羨やましくなつた。奥迄行つて二階へ上つて、それから三階へ上つて、本郷より高い所で、生きたものを近付けずに、紙の臭を嗅ぎながら、――読んで見たい。けれども何を読むかに至つては、別に判然した考がない。読んで見なければ分らないが、何かあの奥に沢山ありさうに思ふ。

 三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入りの札目録を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲つても後から後から新らしい本の名が出て来る。仕舞に肩が痛くなつた。顔を上げて、中休みに、館内を見廻すと、流石に図書館丈あつて静かなものである。しかも人が沢山ゐる。さうして向ふの果にゐる人の頭が黒く見える。眼口は判然しない。高い窓の外から所々に樹が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考へた。それで其日は其儘帰つた。

 次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損なつたので、すぐ返した。後から借りた本は六かし過ぎて読めなかつたから又返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊宛は必ず借りた。尤も会には少し読んだのもある。三四郎が驚ろいたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中此所彼所に見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開ける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底遣り切れないと思つた。所へ窓の外を楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とう/\青木堂へ這入つた。

 這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。茶を一口飲んでは烟草を一吸すつて、大変悠然構へてゐる。今日は白地の浴衣を已めて、背広を着てゐる。然し決して立派なものぢやない。光線の圧力の野々宮君より白襯衣丈が増しな位なものである。三四郎は様子を見てゐるうちに慥かに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中で此男の話した事が何だか急に意義のある様に思はれ出した所なので、三四郎は傍へ行つて挨拶を仕様かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、烟草をふかし、烟草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し様がない。

 三四郎は凝と其横顔を眺めてゐたが、突然手杯にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして図書館に帰つた。