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三四郎 一の二
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夏目金之助
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爺さんに続いて下りたものが四人程あつたが、入れ易つて、乗つたのはたつた一人しかない。固から込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋しくなつた。日の暮れた所為かも知れない。駅夫が屋根をどし/\踏んで、上から灯の点いた洋燈を挿し込んで行く。三四郎は思ひ出した様に前の停車場で買つた弁当を食ひ出した。
車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行つた。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入つた。三四郎は鮎の煮浸の頭を啣へた儘女の後姿を見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながら頻りに食つてゐる。
女はやがて帰つて来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛である。下を向いて一生懸命に箸を突込んで二口三口頬張つたが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢っ張り正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓から首を出して、静かに外を眺め出した。風が強くあたつて、鬢がふわ/\する所が三四郎の眼に這入つた。此時三四郎は空になつた弁当の折を力一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒置の隣であつた。風に逆つて抛げた折の蓋が白く舞ひ戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途女の顔を見た。顔は生憎列車の外に出てゐた。けれども女は静かに首を引っ込めて更紗の手帛で額の所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角も謝まる方が安全だと考へた。
「御免なさい」と云つた。
女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしに黙つて仕舞つた。女も黙つて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客は暗い洋燈の下で、みんな寐ぼけた顔をしてゐる。口を利いてゐるものは誰もない。汽車丈が凄じい音を立てゝ行く。三四郎は眼を眠つた。
しばらくすると「名古屋はもう直でせうか」と云ふ女の声がした。見ると何時の間にか向き直つて、及び腰になつて、顔を三四郎の傍迄持つて来てゐる。三四郎は驚ろいた。
「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向要領を得ない。
「此分では後れますでせうか」
「後れるでせう」
「あんたも名古屋へ御下で……」
「はあ、下ります」
此汽車は名古屋留りであつた。会話は頗る平凡であつた。只女が三四郎の筋向ふに腰を掛けた許である。それで、しばらくの間は又汽車の音丈になつて仕舞ふ。
次の駅で汽車が留つた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人では気味が悪いからと云つて、頻りに頼む。三四郎も尤もだと思つた。けれども、さう快よく引き受ける気にもならなかつた。何しろ知らない女なんだから、頗る躇したにはしたが、断然断わる勇気も出なかつたので、まあ好い加減な生返事をして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。