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三四郎 三の十一
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夏目金之助
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寐慣ない所に寐た床のあとを眺めて、烟草を一本吸んだが、昨夜の事は、凡て夢の様である。縁側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、今日は好い天気だ。世界が今朗らかに成つた許りの色をしてゐる。飯を済まして茶を飲んで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。
「昨夜、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。
「それは珍らしい。滅多に逢へない事だ。僕も家に居れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」
「もう駄目でせう」と一口答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜と昼の差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年が若いからだらう。
三四郎は話を転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。今日は日曜だのに来て呉れないのは苛いと云つて怒つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮す月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。
野々宮君は昨夜よく寐られなかつたものだから茫然して不可ないと云ひ出した。今日は幸ひ午から早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分遅く迄起きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞に来て呉れて、みんなで話をしてゐるうちに、電車の時間に後れて、つい泊る事にした。広田のうちへ泊るべきのを、又妹が駄々を捏ねて、是非病院に泊れと云つて聞かないから、已を得ず狭い所へ寐たら、何だか苦しくつて寐つかれなかつた。どうも妹は愚物だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑くなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪いので已めにした。
其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍耳にしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違ないと極めた。考へると、少し無理の様でもある。
帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。