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三四郎 三の十三
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夏目金之助
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戸の後へ廻つて、始めて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。此婦人は三四郎の身体がまだ扉の影を出ない前から席を立つて待つてゐたものと見える。
「小川さんですか」と向から尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈である。頼まれた風呂敷包を出すと、受取つて、礼を述べて、
「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寝台の向側へ回つた。
寝台の上に敷いた蒲団を見ると真白である。上へ掛けるものも真白である。それを半分程斜に捲ぐつて、裾の方が厚く見える所を、避ける様に、女は窓を背にして腰を掛けた。足は床に届かない。手に編針を持つてゐる。毛糸のたまが寝台の下に転がつた。女の手から長い赤い糸が筋を引いてゐる。三四郎は寝台の下から毛糸のたまを取り出してやらうかと思つた。けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるので控へた。
御母さんが向側から、しきりに昨夜の礼を述べる。御忙がしい所を抔と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせ遊んでゐますからと云ふ。二人が話をしてゐる間、よし子は黙つてゐた。二人の話が切れた時、突然、
「昨夜の轢死を御覧になつて」と聞いた。見ると部屋の隅に新聞がある。三四郎が、
「えゝ」と云ふ。
「怖かつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄に似て頸の長い女である。三四郎は怖いとも怖くないとも答へずに、女の頸の曲り具合を眺めてゐた。半分は質問があまり単純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は気が付いたと見えて、すぐ頸を真直にした。さうして蒼白い頬の奥を少し紅くした。三四郎はもう帰るべき時間だと考へた。
挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向を見ると、長い廊下の果が四角に切れて、ぱつと明るく、表の緑が映る上り口に、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速の歩調に狂が出来た。其時透明な空気の画布の中に暗く描かれた女の影は一歩前へ動いた。三四郎も誘はれた様に前へ動いた。二人は一筋道の廊下の何所かで擦れ違はねばならぬ運命を以て互ひに近付いて来た。すると女が振り返つた。明るい表の空気のなかには、初秋の緑が浮いてゐる許である。振り返つた女の眼に応じて、四角のなかに、現はれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭のなかへ入れた。
着物の色は何と云ふ名か分らない。大学の池の水へ、曇つた常磐木の影が映る時の様である。それを鮮やかな縞が、上から下へ貫ぬいてゐる。さうして其縞が貫ぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、重なつて太くなつたり、割れて二筋になつたりする。不規則だけれども乱れない上から三分一の所を、広い帯で横に仕切つた。帯の感じには暖味がある。黄を含んでゐるためだらう。
後を振り向いた時、右の肩が、後へ引けて、左の手が腰に添つた儘前へ出た。手帛を持つてゐる。其手帛の指に余つた所が、さらりと開いてゐる。絹の為だらう。――腰から下は正しい姿勢にある。