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三四郎 一の四

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三四郎 一の四

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夏目金之助

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 そこへ下女が床を延べに来る。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、床は二つ敷かなくては不可ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか云つて埒が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸出ましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳一杯に敷いて出て行つた。

 夫から、しばらくすると女が帰つて来た。どうも遅くなりましてと云ふ。蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音がした。小供に見舞の玩具が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳の向ふで「御先へ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜を明かして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん/\来る。外ではとても凌ぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄の中から、キヤラコの襯衣と洋袴下を出して、それを素肌へ着けて、其上から紺の兵児帯を締めた。それから西洋手拭を二筋持つた儘蚊帳の中へ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。

「失礼ですが、私は疳性で他人の布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい」

 三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷いてある敷布の余つてゐる端を女の寐てゐる方へ向けてぐる/\捲き出した。さうして布団の真中に白い長い仕切りを拵らへた。女は向へ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかつた。女とは一言も口を利かなかつた。女も壁を向いた儘凝として動かなかつた。

 夜はやう/\明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜は蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目に答へながら、下を向いて、御猪口の葡萄豆をしきりに突つつき出した。

 勘定をして宿を出て、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間もなく来た。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場の際迄送つて来た女は、

「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄と傘を片手に持つた儘、空た手で例の古帽子を取つて、只一言、

「左様なら」と云つた。女は其顔を凝と眺めてゐたが、やがて落付いた調子で、

「あなたは余つ程度胸のない方ですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入つたら両方の耳が一層熱り出した。しばらくは凝つと小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に返る三四郎を一寸見た。