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三四郎 五の八

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三四郎 五の八

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夏目金之助

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 一丁許来た。又橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大股に歩いた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎の眼には、女の足が常の大地を踏むと同じ様に軽く見えた。此女は素直な足を真直に前へ運ぶ。わざと女らしく甘へた歩き方をしない。従つて無暗に此方から手を貸す訳に行かない。

 向ふに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子を干したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄来て留つた。

「美くしい事」と云ひながら、草の上に腰を卸した。草は小河の縁に僅かな幅を生えてゐるのみである。夫すら夏の半の様に青くはない。美禰子は派出な着物の汚れるのを、丸で苦にしてゐない。

「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促がす様に云つて見た。

「難有う。是で沢山」

「矢っ張り心持が悪いですか」

「あんまり疲れたから」

 三四郎もとう/\汚ない草の上に坐つた。美禰子と三四郎の間は四尺許離れてゐる。二人の足の下には小さな河が流れてゐる。秋になつて水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまつた位である。三四郎は水の中を眺めてゐた。水が次第に濁つて来る。見ると河上で百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは広い畠で、畠の先が森で、森の上が空になる。空の色が段々変つて来る。

 たゞ単調に澄んでゐたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る藍の地が消える様に次第に薄くなる。其上に白い雲が鈍く重なりかゝる。重なつたものが溶けて流れ出す。何所で地が尽きて、何所で雲が始まるか分らない程に嬾い上を、心持黄な色がふうと一面にかゝつてゐる。

「空の色が濁りました」と美禰子が云つた。

 三四郎は流れから眼を放して、上を見た。かう云ふ空の模様を見たのは始めてゞはない。けれども空が濁つたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。気が付いて見ると、濁つたと形容するより外に形容しかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。

「重い事。大理石の様に見えます」

 美禰子は二重瞼を細くして高い所を眺めてゐた。それから、その細くなつた儘の眼を静かに三四郎の方に向けた。さうして、

「大理石の様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、

「えゝ、大理石の様に見えます」と答へるより外はなかつた。女はそれで黙つた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。

「かう云ふ空の下にゐると、心が重くなるが気は軽くなる」

「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。

 三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。

「安心して夢を見てゐる様な空模様だ」

「動く様で、なか/\動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺め出した。