title
三四郎 五の十
author
夏目金之助
body
三四郎は斯う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へば好かつた、斯うすれば好かつたと後悔する。と云つて、此後悔を予期して、無理に応急の返事を、左も自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかつた。だから只黙つてゐる。さうして黙つてゐる事が如何にも半間であると自覚してゐる。
迷へる子といふ言葉は解つた様でもある。又解らない様でもある。解る解らないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使つた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に真面目になつた。
「私そんなに生意気に見えますか」
其調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧の中にゐた。霧が晴れゝば好いと思つてゐた。此言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
三四郎は美禰子の態度を故の様な、――二人の頭の上に広がつてゐる、澄むとも濁るとも片付かない空の様な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位で戻せるものではないと思つた。女は卒然として、
「ぢや、もう帰りませう」と云つた。厭味のある言ひ方ではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものと諦めた様に静かな口調であつた。
空は又変つて来た。風が遠くから吹いてくる。広い畠の上には日が限つて、見てゐると、寒い程淋しい。草からあがる地意気で身体は冷えてゐた。気が付けば、こんな所に、よく今迄べつとり坐つて居られたものだと思ふ。自分一人ならとうに何所かへ行つて仕舞つたに違ない。美禰子も――美禰子はこんな所へ坐る女かも知れない。
「少し寒むくなつた様ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し気分はもう悉皆直りましたか」
「えゝ、悉皆直りました」と明かに答へたが、俄かに立ち上がつた。立ち上がる時、小さな声で、独り言の様に、
「迷へる子」と長く引つ張つて云つた。三四郎は無論答へなかつた。
美禰子は、さつき洋服を着た男の出て来た方角を指して、道があるなら、あの唐辛子の傍を通つて行きたいといふ。二人は、その見当へ歩いて行つた。藁葺の後に果して細い三尺程の路があつた。其路を半分程来た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へ来る事に極つたんですか」
女は片頬で笑つた。さうして問返した。
「何故御聞きになるの」
三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘があつた。四尺許りの所、土が凹んで水がぴた/\に溜つてゐる。其真中に足掛りの為に手頃な石を置いたものがある。三四郎は石の扶を藉らずに、すぐに向へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘の真中にある石の上へ乗せた。石の据りがあまり善くない。足へ力を入れて、肩を揺つて調子を取つてゐる。三四郎は此方側から手を出した。
「御捕まりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを托して、左の足でひらりと此方側へ渡つた。あまりに下駄を汚すまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰が浮いた。のめりさうに胸が前へ出る。其勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷へる子」と美禰子が口の内で云つた。三四郎は其呼吸を感ずる事が出来た。