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三四郎 六の十

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三四郎 六の十

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夏目金之助

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 三四郎は眼の着け所が漸く解つたので、先づ一段落告げた様な気で、安心してゐると、忽ち五六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐つてゐる真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共是等の壮漢が這入つて来る。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸を喘ませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比べて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に走ける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走けて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ脊が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨を向へ抛げて、此方をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時になく真黒なフロツクを着て、胸に掛員の徽章を付けて、大分人品が宜い。手帛を出して、洋服の袖を二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて来た。丁度美禰子とよし子の坐つてゐる真前の所へ出た。低い柵の向側から首を婦人席の中へ延ばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄歩いて行く。柵の向ふと此方で話しを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑に充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の傍へ寄つて行く。二人が三人になつた。芝生の中では砲丸抛が始つた。

 砲丸抛程腕の力の要るものはなからう。力の要る割に是程面白くないものも沢山ない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると悪いと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中へ引き取つた。二人の女も元の席へ復した。砲丸は時々抛げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分らない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事で片が付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。

 それから又競走があつて、長飛があつて、其次には槌抛げが始まつた。三四郎は此槌抛に至つて、とう/\辛抱が仕切れなくなつた。運動会は各自勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所迄来た。幕が張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上りを岡の頂点迄来た。路は頂点で尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖の下にある池を眺めた。下の運動会場でわあといふ多勢の声がする。

 三四郎はおよそ五分許石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上げて、立ちながら、靴の踵を向け直すと、岡の上り際の、薄く色づいた紅葉の間に、先刻の女の影が見えた。並んで岡の裾を通る。