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三四郎 七の二

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三四郎 七の二

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夏目金之助

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 三四郎が広田の家へ来るには色々な意味がある。一つは、此人の生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は何うしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来る。次に此人の前へ出ると呑気になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限で話してゐると、自分も早く一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮いて堪らない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其所に、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃女に囚れた。恋人に囚はれたのなら、却つて面白いが、惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖がつて可いんだか、蔑んで可いんだか、廃すべきだか続けべきだか訳の分らない囚はれ方である。三四郎は忌々敷なつた。さう云ふ時は広田さんに限る。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人や二人どうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜出掛けて来たのは七分方此意味である。

 訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍に野々宮さんを置くと猶苦しんで来る。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係が自から明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然極める事が出来る。其癖二人の事を未だ曾て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。

「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」

「えゝ、下宿したさうです」

「家を持つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは能く……」

「えゝ、そんな事には一向無頓着な方でね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」

「当分あゝ遣つて御出の積なんでせうか」

「分らない。又突然家を持つかも知れない」

「奥さんでも御貰になる御考へはないんでせうか」

「あるかも知れない。佳いのを周旋して遣り玉へ」

 三四郎は苦笑をした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、

「君はどうです」と聞いた。

「私は……」

「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」

「国のものは勧めますが」

「国の誰が」

「母です」

「御母さんの云ふ通り持つ気になりますか」

「中々なりません」

 広田さんは髭の下から歯を出して笑つた。割合に奇麗な歯を持つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎は是で、野々宮抔の事を聞くのが恥づかしい気がし出して、質問を已めて仕舞つた。すると広田先生が又話し出した。――