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三四郎 八の二
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夏目金之助
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夫から今日に至る迄与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払を気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可いがと思つて、日を過すうちに晦日近くなつた。もう一日二日しか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延ばして置かう抔といふ考はまだ三四郎の頭に上らない。必ず与次郎が持つて来て呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切気はあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水の様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。
三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつて来た。窓の下迄来て仰向いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、居るか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下して「うん、居る」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引込める。与次郎は階子段をとん/\上がつて来た。
「待つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿気てゐる」
「文芸時評から原稿料を呉れたか」
「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞た」
「だつて此間は月末に取る様に云つてゐたぢやないか」
「さうかな。夫は聞違だらう。もう一文も取るのはない」
「可笑しいな。だつて君は慥かに左う云つたぜ」
「なに、前借をしやうと云つたのだ。所が中中貸さない。僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん。僅か二十円許の金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いて遣つても信用しない。詰らない。厭になつちまつた」
「ぢや金は出来ないのか」
「いや外で拵らへたよ。君が困るだらうと思つて」
「さうか。それは気の毒だ」
「所が困つた事が出来た。金は此所にはない。君が取りに行かなくつちや」
「何所へ」
「実は文芸時評が可けないから、原口だの何だの二三軒歩いたが、何所も月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんの兄さんだ。あすこへ行つた所が、今度は留守で矢っ張り要領を得ない。其うち腹が減つて歩くのが面倒になつたから、とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」
「野々宮さんの妹が居やしないか」
「なに午少し過ぎだから学校に行てる時分だ。それに応接間だから居たつて構やしない」
「さうか」
「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」
「あの女は自分の金があるのかい」
「そりや、何うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可い。宜しく願つて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金は此所にありますが、あなたには渡せませんと云ふんだから驚ろいたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭になつちまつた。ぢや小川を遣しますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可い。君取りに行けるかい」
「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」
「電報はよさう。馬鹿気てゐる。いくら君だつて借りに行けるだらう」
「行ける」
是で漸く弐拾円の埒が明いた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。