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三四郎 八の六
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夏目金之助
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「佐々木さんが、あなたの所へ入らしつたでせう」と云つて例の白い歯を露した。女の後には前の蝋燭立が暖炉台の左右に並んでゐる。金で細工をした妙な形の台である。是を蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分らない。此不可思議の蝋燭立の後に明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛に遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間に美禰子の白い歯を見た。
「佐々木が来ました」
「何と云つて入らつしやいました」
「僕にあなたの所へ行けと云つて来ました」
「左うでせう。――夫で入らしつたの」とわざわざ聞いた。
「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左うです」と答へた。女は全く歯を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面を眺め出した。
「曇りましたね。寒いでせう、戸外は」
「いゝえ、存外暖かい。風は丸でありません」
「さう」と云ひながら席へ帰つて来た。
「実は佐々木が金を……」と三四郎から云ひ出した。
「分つてるの」と中途でとめた。三四郎も黙つた。すると
「何うして御失くしになつたの」と聞いた。
「馬券を買つたのです」
女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこし経つて、「悪い方ね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。
「馬券で中るのは、人の心を中るより六かしいぢやありませんか。あなたは索引の付いてゐる人の心さへ中て見様となさらない呑気な方だのに」
「僕が馬券を買つたんぢやありません」
「あら。誰が買つたの」
「佐々木が買つたのです」
女は急に笑ひ出した。三四郎も可笑しくなつた。
「ぢや、あなたが御金が御入用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」
「要る事は僕が要るのです」
「本当に?」
「本当に」
「だつて夫ぢや可笑いわね」
「だから借りなくつても可いんです」
「何故。御厭なの?」
「厭ぢやないが、御兄いさんに黙つて、あなたから借りちや、好くないからです」
「何ういふ訳で? でも兄は承知してゐるんですもの」
「左うですか。ぢや借りても好い。――然し借りないでも好い。家へさう云つて遣りさへすれば、一週間位すると来ますから」
「御迷惑なら、強ひて……」
美禰子は急に冷淡になつた。今迄傍にゐたものが一町許遠退いた気がする。三四郎は借りて置けば可かつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭立を見て澄してゐる。三四郎は自分から進んで、他の機嫌を取つた事のない男である。女も遠ざかつたぎり近付いて来ない。しばらくすると又立ち上がつた。窓から戸外をすかして見て、
「降りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。
「降らなければ、私一寸出て来やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光る絹を着換たのも自分の為ではなかつた。
「もう帰りませう」と立ち上がつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱へ下りて、靴を穿いてゐると、上から美禰子が、
「其所迄御一所に出ませう。可いでせう」と云つた。三四郎は靴の紐を結びながら、「えゝ、何うでも」と答へた。女は何時の間にか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍へ口を持つて来て、「怒つて入らつしやるの」と私語いだ。所へ下女が周章ながら、送りに出て来た。