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三四郎 九の三
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夏目金之助
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「それは何う云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなつた。
「だつて、光線の圧力を試験する為に、眼丈明けて、自然を観察してゐたつて、駄目だからさ。彗星でも出れば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ、自然の献立のうちに、光線の圧力といふ事実は印刷されてゐない様ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのと云ふ装置をして、其圧力が物理学者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」
「然し浪漫派でもないだらう」と原口さんが交ぜ返した。
「いや浪漫派だ」と広田先生が勿体らしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない様な位地関係に置く所が全く浪漫派ぢやないか」
「然し、一旦さういふ位地関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学の方で云ふと、イブセンの様なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較を持ち出した。
「左様、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、其装置の下に働らく人物は、光線の様に自然の法則に従つてゐるか疑はしい」是は縞の羽織の批評家の言葉であつた。
「左うかも知れないが、斯う云ふ事は人間の研究上記憶して置くべき事だと思ふ。――即ち、ある状況の下に置かれた人間は、反対の方向に働らき得る能力と権利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ様に器械的の法則に従つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出来る。怒らせやうと思つて装置をすると、笑つたり。笑はせやうと目論んで掛ゝると、怒つたり。丸で反対だ。然しどつちにしても人間に違ない」と広田先生が又問題を大きくして仕舞つた。
「ぢや、ある状況の下に、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」と向の小説家が質問した。広田先生は、すぐ、
「えゝ、えゝ。どんな人間を、どう描いても世界に一人位はゐる様ぢやないですか」と答へた。「実際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、何うしたつて想像出来るものぢやない。たゞ下手に書くから人間と思はれないのぢやないですか」
小説家は夫で黙つた。今度は博士が又口を利いた。
「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈の一振動の時間が、振動の大小に拘はらず同じである事に気が付いたり、ニユートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、始めから自然派ですね」
「さう云ふ自然派なら、文学の方でも結構でせう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエと云ふ奴がゐる。〔ve'rite'〕 vraie、何でも事実でなければ承知しない。然しさう猖獗を極めてゐるものぢやない。たゞ一派として存在を認められる丈さ。又左うでなくつちや困るからね。小説だつて同じ事だらう、ねえ君。矢っ張りモローや、シヤンヌの様なのもゐる筈だらうぢやないか」
「居る筈だ」と隣の小説家が答へた。
食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美くしい芸者の銅像でも拵らへる方が気が利いてゐるといふ説であつた。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作つたんだと教へた。
会が済んで、外へ出ると好い月であつた。今夜の広田先生は庄司博士に善い印象を与へたらうかと与次郎が聞いた。三四郎は与へたらうと答へた。与次郎は共同水道栓の傍に立つて、此夏、夜散歩に来て、あまり暑いから、此所で水を浴びてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢山へ馳け上がつたと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰つた。